「彗星三人組」を結成したのは、たしか初めて人工衛星が打ち上げられた1957年ごろであった。その頃、高知市の上町で観測していた私を中心に、西の土佐市で彗星の捜索に熱心だった池幸一氏。それに人工衛星の観測に特に熱心だった高知市の西山亮氏の三人だった。しかし西山氏が不慮の交通事故で亡くなったので、その代わりに、市内のお寺で若き僧侶だった山本竜雄氏が補欠で入った。

 山本氏は火星観測のなかなかの大家であった。中央の観測者と常に連絡を取りながら五台山で観測した。ちょうど15年に一回の火星の接近時で、その頃はまだ火星人の存在が噂されていた。火星の表面に描かれたと思われる運河や、大規模な幾何学的な模様をスケッチしていた。ある晩、「火星の”太陽湖”の近くに奇妙な模様がある。もしかしたら火星人からの通信かも知れない」と言って連絡してきた。そして日本の観測者の間で話題になった。

 私は自宅で15cm反射望遠鏡を使って、これを確認しようとしたが見えなかった。それから3カ月、音信不通が続いたが、ある朝、新聞に山本さんの死亡広告が出て驚いた。持病が昂じて30台の若さで亡くなられたのだ。こうして”三人組”はまた欠けた。迷信にこだわる私の母は、「昔から三人組は運が良くない」と、よく言っていた。

 1980年に芸西天文台が完成してから、講師の中で私と下元氏、村岡氏でまた”芸西三人組”を結成して活動を開始したが、又も村岡氏が50才台の若さで病没することになって、”三人組はやはりいけないや〝ということになった。迷信に従うわけではないが、こうも不幸が続くと自然に遠くなってしまうものだ。

(写真は関を中心に向かって右に村岡健治、左に門田健一、の三人。関宅にて)
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