私が時々通っている高知市介良(けら)の水泳場から南に低い連山が見える。高知市の鷲尾山から東に浦戸湾をまたいで連なる連山で、ここは戦時中の軍事基地(要塞)があった。

 太平洋戦も末期に近い1945年の夏、私たち学生は、関東軍の指揮下にあって山で塹壕堀を手伝っていた。連山の頂上近くに無数の横穴を掘って塹壕を築き南の土佐湾から上陸してくる連合軍を撃つというものであった。

 しかし今の様なトンネルの掘削機もない時代で、多くの兵士や学生は、ツルハシやスコップを振るってトンネルを掘り進んだ。しかし横穴の天井に大岩があったりして工事は難航した。突然降ってきた岩石に当たって命を落とした兵士もいた。

 しかしトンネルの向こうには美しい海原が広がっていた。室戸岬に続く白い砂浜に太平洋の波が音もなく打ち寄せていた。やがて連合軍が敵前上陸してきてこの美しい海が戦場になるのか?(いや、そんなことはない、ここは永遠に平和な楽園だ!)私は幼い心にそう叫んだ。

 私の中学時代は大戦の激しい頃で、学校でほとんど授業を受けることなく、家から直接作業現場に向かった。現場は県下のいたるところに達した。無論ボランティアの重労働であった。戦後になって、国から学生に報奨金が出るという事であったが、学校から生徒に支給されることはなかった。戦時中は市内電車等の乗り物に乗ることは禁じられていた。体を鍛える目的の、歩け歩けで、その頃巷には、
    
   ♪ 歩け歩け、あーるけ歩け、
       東へ西へあーるけ歩けあるけ
           道なき道を、あーるけ歩け、あるけ ♯

 と言った力強い3拍子のリズムに乗ったラジオ歌謡が流行した。この歌に象徴されるように、とにかく楽をせずに体を鍛えた。もし私たちが体験した戦時中の過酷な労働で、良いものがあったとしたら、そのころ培われた体力であろうか?成人してから、今日までの60余年余の過酷な天体観測に耐えれたのも、そのおかげかもしれない、と独り心を慰めるのである。

(写真は、高知市介良に連なる海岸の連山で、今も塹壕の後が残っている)
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