眼の前の電車道りを「チンチン電車」が走って行く。これは終戦から数年後、坂本龍馬が生まれた家から見た上町一丁目の風景である。龍馬の生まれた家は、戦前から空き家になって残っていた。この西隣にS君という、小学校の同級生がいて、家が珊瑚の加工をやっていて、よく遊びに行った。そして数人で、龍馬の空き家で”鬼ごっこ”などして遊んだものである。
 竜馬がいたら「ほたえなー!」と怒鳴ったに違いない。「騒ぐな」という意味の土佐弁である。

 チンチン電車は、昭和の初めごろ、高知市内を走っていた初期の電車で、私たちは戦時中に、よくこれに乗って学校や勤労奉仕の作業現場に向かった。小さな電車に乗りきれず、いつも超満員で、乗れない人は側面の窓の手すりにぶら下がったり、あるいは線路上の障害物よけの前の金網に座って走った。今なら大変な事であるが、当時は戦時中で一刻も早く現場に到着することを優先した。

 戦前、父と京都を旅した時、史跡の1つとして、龍馬らが暗殺された近江屋らしい家を見学したことがある。土間の暗い二階建てで、龍馬の生まれた家も、確か二階建てであった。当時から言えば多少の改造はあったかもしれないが、龍馬がいたころの雰囲気は残されていた。その後取り壊されたのか、戦災で焼失したのか、今は「竜馬誕生の地」の石碑が、残るだけである。命日の11月15日には、毎年追悼の式典が催されている。

 私が通っていたころの戦時中の第四小学校は、校区に龍馬の誕生地があるという事で、大いに龍馬を喧伝した。講堂の上には有名な龍馬の絵が掲げられてあった。校長はよく龍馬の業績について訓話した。その頃、音楽の先生が「夢龍馬」という曲を作詞作曲した。大変な名曲で、学童たちが愛唱した。今だったら大ヒットしたと思われるのだが、敗戦と共に消え去ったのは惜しまれる。龍馬の活動(海援隊)は、日本海軍の起こりだったのだ。

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