アメリカのスミソニアンで永い事、彗星の研究に携わったマースデン博士とホイップル博士、それにセカニナ博士の三人である。彼らは本気か冗談か?車の後側に「COMETS」と書いたプレートを張って走り回っていた。

 車体に商品の宣伝を書いてあるのは珍しくないが、ナンバープレートの代わりに取り付けてあるので、日本だったら問題になりそう。向かって右から有名なマースデン博士で軌道研究の大家。中央が、彗星の”雪だるま説”や、短周期彗星の”100年消滅説”を唱えたホイップル博士で、三人目が北欧出身の理論家セカニナ博士である。

 1942年に発見したホイップル彗星(1942X1)は、不穏な大戦中の北の空に不気味な長い尾を立ち昇らせて、注目された。敗戦1年前の1944年に、これを目撃した私の父は、ホウキ星を不吉の前兆としてとらえ、日本の敗戦を予感したという。そして翌1945年に終戦。ホイップル彗星が、事実上の敗戦の予告者であった。

 日本でも及ばずながらの"彗星三羽からす”がいた。「関・ラインズ彗星」の出た1962年に高知県で結成された「関・池・西山」の三人組であったが、池氏は車に小型のコメットシーカーを入れて山に海岸に走り回って観測していた。商業用の軽四にいつも「高知彗星クラブ」という看板を張っていた。

 しかし西山氏が交通事故で死亡したので、その後釜として”よさこい節”で有名なお寺の若い僧侶が入った。昔(お馬)のために、かんざしを買った人のモデルである。ところが間もなくその人も30代の若さで病没してしまった。僧侶のYさんは火星の観測者としても有名で、東亜天文学会の傘下で活躍していた。”三人組”は若い有望な人を二人失う結果となった。

 1980年になって「芸西天文学習館」が発足し観測会が復活した。60cmの反射望遠鏡である。そこで久しぶりに村岡、関、下元と彗星の観測者三人がそろったが、またしても村岡氏が50歳の若さで病没した。「どうも三人組は縁起が良くない」という事になって”三羽烏”は結成しないことになった。村岡氏は世界的な彗星軌道の計算者であり、下元氏はパソコンとCCD観測に精通した観測者である。

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