家に近い鏡川のほとりを散歩していると、冬ならではの美しい光景に出会います。昔小学生のころ、いつも仰いでいた校庭のせんだんの実、そのせんだんの木は数十年の歳月を経て、鏡川の土手にありました。その時見た青い深い空の色は今も残っていました。
それは太平洋戦争の勃発した1940年の秋、10月でした。近くで火事があってサイレンが鳴り父に起こされました。二階の北の雨戸を開けてあたりを見回しましたが、火は見えません。その代わり晩秋の澄み切った星空がそこにあって心を惹かれました。小さな流星がチカチカと活動していました。実はその頃「岡林・本田彗星」という彗星が発見されて東天に輝いているはずでした。当時の「土陽新聞」に大きく報道されていました。
私は岡林さんや本田さんの発見した夜空を偶然見て知っていたのでした。光害の全く無い見事な星空の下で、二人は活躍していたのでした。しかし発見の栄誉も束の間、本田さんは大陸に、岡林さんは南方へと出征して故郷を離れられたのです。
ご両人の発見を称えるアメリカ太平洋天文学会からの「ドノホーメダル」は、長い事行方不明になっていましたが、本田さんのメダルは実に70年ぶりに鳥取県の実家から出てきたお話をしました。一方岡林さんのメダルはわかりません。出征の時、母校の中学校に預けたという説があり、一方では終戦の年、帰国中の病院船、阿波丸と共に台湾海峡に沈んだという説もあります。
岡林さんは、戦時中も栄光のメダルを身につけて、再び故国の土を踏むのを夢見ていたかもしれません。そして星空に立ち向かう日のことを、、、、、、。


にほんブログ村
それは太平洋戦争の勃発した1940年の秋、10月でした。近くで火事があってサイレンが鳴り父に起こされました。二階の北の雨戸を開けてあたりを見回しましたが、火は見えません。その代わり晩秋の澄み切った星空がそこにあって心を惹かれました。小さな流星がチカチカと活動していました。実はその頃「岡林・本田彗星」という彗星が発見されて東天に輝いているはずでした。当時の「土陽新聞」に大きく報道されていました。
私は岡林さんや本田さんの発見した夜空を偶然見て知っていたのでした。光害の全く無い見事な星空の下で、二人は活躍していたのでした。しかし発見の栄誉も束の間、本田さんは大陸に、岡林さんは南方へと出征して故郷を離れられたのです。
ご両人の発見を称えるアメリカ太平洋天文学会からの「ドノホーメダル」は、長い事行方不明になっていましたが、本田さんのメダルは実に70年ぶりに鳥取県の実家から出てきたお話をしました。一方岡林さんのメダルはわかりません。出征の時、母校の中学校に預けたという説があり、一方では終戦の年、帰国中の病院船、阿波丸と共に台湾海峡に沈んだという説もあります。
岡林さんは、戦時中も栄光のメダルを身につけて、再び故国の土を踏むのを夢見ていたかもしれません。そして星空に立ち向かう日のことを、、、、、、。


にほんブログ村
コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。