今のように天体写真が普及しなかった時代には、眼視用のコメットシーカー(彗星捜索用望遠鏡)が種々考案され、新彗星の発見を競った。中でも「幸一ちゃん」の発明は奇想天外なものであったが、しかし便利な望遠鏡が出来たからといって、必ずしも、より多くの発見につながるものではなかった。ただ、楽に全天の捜索ができただけである。
これらコメットハンターたちの望遠鏡を見てみると、どこかに共通点があった。実はそれらのモデルは遠く19世紀、ドイツの光学会社の名門、ツアイスが作った口径20cmの彗星捜索鏡にあったのだ。この第一号をいち早く購入したのが、日本の東京天文台であった。彗星の捜索をあまり奨励していなかったはずの東京天文台が、なぜこれを購入したかは永遠の謎である(一台で家が建つほどの高価)。
しかし発見はあった。1936年、この奇妙な機械を使って、変光星を観測していた下保茂技官は、夕空の小しし座に偶然、6等級の彗星を発見し「カホ・コジック・リス彗星」の名称を得たのである。1936年7月の事で、「岡林・本田彗星」に先がけること4年である。1928年の山崎正光氏の発見は、周期彗星であって「ヤマサキ」の名はついていないので、下保氏の発見は事実上、日本での最初の新彗星の発見とみなすべきであろう。
これについて少し余談がある。ツアイス製の優れた望遠鏡の事を知ったモノ好きな”幸一ちゃん”は、早速、東京天文台の下保技官に「その技術資料を送れ」との手紙を出した。しかし返信が無かったという。我々仲間は星の会合で「どこの田舎の馬の骨ともわからぬ新前が、そのような手紙を出しても相手は位の高い国立、返事が来るはずなない」と大笑いした。しかし実直な下保氏から後日「まず自分の持っている望遠鏡で真面目に天体観測を始めなさい」との忠告があったという。なんの実績もない人間が、最初からそのような高嶺の花に憧れるのが筋違いという事であろう。
これとは全く違った性格を持つ青年が出た。彼は誰にも習わず自分の力で反射鏡を磨いた。そして1960年、彗星の捜索を始めた。20cmの、自作の望遠鏡であった。最初に発見して天文台に報告したのが1961年の”セキ彗星”であったという。すべてが謙虚な中に黙々と独り努力を続けた。これぞアマチュアの手本になる人である。そう!1965年の「池谷・関彗星」の発見者、池谷薫氏だったのである。
(写真はツアイスの望遠鏡カタログの中の宣伝、20cmコメットシーカー)
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これらコメットハンターたちの望遠鏡を見てみると、どこかに共通点があった。実はそれらのモデルは遠く19世紀、ドイツの光学会社の名門、ツアイスが作った口径20cmの彗星捜索鏡にあったのだ。この第一号をいち早く購入したのが、日本の東京天文台であった。彗星の捜索をあまり奨励していなかったはずの東京天文台が、なぜこれを購入したかは永遠の謎である(一台で家が建つほどの高価)。
しかし発見はあった。1936年、この奇妙な機械を使って、変光星を観測していた下保茂技官は、夕空の小しし座に偶然、6等級の彗星を発見し「カホ・コジック・リス彗星」の名称を得たのである。1936年7月の事で、「岡林・本田彗星」に先がけること4年である。1928年の山崎正光氏の発見は、周期彗星であって「ヤマサキ」の名はついていないので、下保氏の発見は事実上、日本での最初の新彗星の発見とみなすべきであろう。
これについて少し余談がある。ツアイス製の優れた望遠鏡の事を知ったモノ好きな”幸一ちゃん”は、早速、東京天文台の下保技官に「その技術資料を送れ」との手紙を出した。しかし返信が無かったという。我々仲間は星の会合で「どこの田舎の馬の骨ともわからぬ新前が、そのような手紙を出しても相手は位の高い国立、返事が来るはずなない」と大笑いした。しかし実直な下保氏から後日「まず自分の持っている望遠鏡で真面目に天体観測を始めなさい」との忠告があったという。なんの実績もない人間が、最初からそのような高嶺の花に憧れるのが筋違いという事であろう。
これとは全く違った性格を持つ青年が出た。彼は誰にも習わず自分の力で反射鏡を磨いた。そして1960年、彗星の捜索を始めた。20cmの、自作の望遠鏡であった。最初に発見して天文台に報告したのが1961年の”セキ彗星”であったという。すべてが謙虚な中に黙々と独り努力を続けた。これぞアマチュアの手本になる人である。そう!1965年の「池谷・関彗星」の発見者、池谷薫氏だったのである。
(写真はツアイスの望遠鏡カタログの中の宣伝、20cmコメットシーカー)
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