1972年、高知市の上町から、芸西村に移転した当初の観測所です。はるか向こうに、手結山と太平洋が見えています。移転当初は空は暗く観測には絶好の場所でした。謎の光芒”対日照”も、毎晩の如く見えていました。スライドルーフの施設の中に見えている望遠鏡はオール自作の40cm反射望遠鏡です。ここで、五藤式の60cm反射望遠鏡が完成するまで、4個の周期彗星を発見(検出)しました。彗星の捜索のためには12cmの双眼望遠鏡が座っていました。
しかし、ここにも光害が押し寄せてきました。22等星の空も格段に明るくなっていきました。それは野球のナイターを始めたことと、芸西村のビニールハウスに園芸のための灯が灯されるようになったからです。折角70cmの望遠鏡がありながら、暗い場所で観測する小口径の施設に負けるようになりました。
1984年には折から接近して来るハレー彗星を狙って、20等級で勝負したことが今では遠い夢の物語となりました。
しかしGeiseiの372は世界に登録した観測所のナンバーです。空が悪くなっても、彗星の観測は続けています。それは、精密な位置の観測で、スミソニアンのセンターに報告され、彗星の軌道決定の材料となっているのです。この作業は上町時代から今日まで、半世紀も続けられています。
(写真は1975年頃で、1980年には県立の6mドームがこの右側に完成した)
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しかし、ここにも光害が押し寄せてきました。22等星の空も格段に明るくなっていきました。それは野球のナイターを始めたことと、芸西村のビニールハウスに園芸のための灯が灯されるようになったからです。折角70cmの望遠鏡がありながら、暗い場所で観測する小口径の施設に負けるようになりました。
1984年には折から接近して来るハレー彗星を狙って、20等級で勝負したことが今では遠い夢の物語となりました。
しかしGeiseiの372は世界に登録した観測所のナンバーです。空が悪くなっても、彗星の観測は続けています。それは、精密な位置の観測で、スミソニアンのセンターに報告され、彗星の軌道決定の材料となっているのです。この作業は上町時代から今日まで、半世紀も続けられています。
(写真は1975年頃で、1980年には県立の6mドームがこの右側に完成した)
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