彗星発見までの苦闘を綴った自伝「未知の星を求めて」は、「天文ガイド」の編集長だった田村栄氏らの好意で「天文ガイド」誌等に紹介され、東京で出版の記念会が催された。その席に私と同郷の五藤斉三氏が出席していた。
五藤氏は、彼の会社のプラネタリウムが高知市内に建造中である本の写真を見て感激し「関さん、高知県にはプラネタリウムと共に、あなた方が自由に使える天文台が必要です。出来ることなら、私の会社でできる最高の望遠鏡を寄付したいと思っています」と、その構想を話された。芸西天文台の建設は、この時すでに出発点を迎えていたのである。(1966年の事。)
五藤光学でできる最大の望遠鏡という事で、全社員が一丸となって取り組んだ。肝心の60cm反射鏡の研磨は、膨張係数がゼロに近いセラミック材を使用した。東北大から光学の吉田博士を呼んで主鏡を研磨した。赤道儀はヨーロッパ最高の機種を参考に製作した。この60cm反射望遠鏡で、1984年、折から接近中のハレー彗星発見の烽火を挙げたのは痛快であった。そして多くの周期彗星の回帰を検出した。
こうして60cm反射望遠鏡は約30年間活躍し、その任務を終えた。デジタルという新しい時代の波が押し寄せてきた。望遠鏡は県によって簡単にレバノンの大学に譲渡されたが、この望遠鏡は高知県の文化のために尽くしてきた五藤氏と共に、それを称える施設を作って残したかった。そして、これからの若い人たちのための研鑽の場にしたかった、と考えるのは私一人ではありますまい。
江戸時代の谷秦山に徳川時代の川谷薊山。そして昭和の五藤斉三。この三代の流れは、高知県の天文という文化を支えた大きな山脈であった。
(1976年、世田谷の五藤宅屋上の天文台の前に立つ五藤斉三氏と関勉)


にほんブログ村
五藤氏は、彼の会社のプラネタリウムが高知市内に建造中である本の写真を見て感激し「関さん、高知県にはプラネタリウムと共に、あなた方が自由に使える天文台が必要です。出来ることなら、私の会社でできる最高の望遠鏡を寄付したいと思っています」と、その構想を話された。芸西天文台の建設は、この時すでに出発点を迎えていたのである。(1966年の事。)
五藤光学でできる最大の望遠鏡という事で、全社員が一丸となって取り組んだ。肝心の60cm反射鏡の研磨は、膨張係数がゼロに近いセラミック材を使用した。東北大から光学の吉田博士を呼んで主鏡を研磨した。赤道儀はヨーロッパ最高の機種を参考に製作した。この60cm反射望遠鏡で、1984年、折から接近中のハレー彗星発見の烽火を挙げたのは痛快であった。そして多くの周期彗星の回帰を検出した。
こうして60cm反射望遠鏡は約30年間活躍し、その任務を終えた。デジタルという新しい時代の波が押し寄せてきた。望遠鏡は県によって簡単にレバノンの大学に譲渡されたが、この望遠鏡は高知県の文化のために尽くしてきた五藤氏と共に、それを称える施設を作って残したかった。そして、これからの若い人たちのための研鑽の場にしたかった、と考えるのは私一人ではありますまい。
江戸時代の谷秦山に徳川時代の川谷薊山。そして昭和の五藤斉三。この三代の流れは、高知県の天文という文化を支えた大きな山脈であった。
(1976年、世田谷の五藤宅屋上の天文台の前に立つ五藤斉三氏と関勉)


にほんブログ村
コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。