周期約5年で太陽を公転する同彗星は1948年の12月に発見された。日本の本田実さんと、当時のチェコ・スロヴァキアのムルコス・パジュサコヴァ夫妻による同時発見である。本田さんは15cmの反射望遠鏡を使っての発見で、本田氏から一歩遅れたムルコスとパ女史は、ソメト製の新鋭の双眼望遠鏡(10cm実視野4度)を使っていた。いわゆる”鉄のカーテン”の中での発見で、情報は少なく詳しいことはわからなかったが、なんでも海抜1400mのタトラ山中のスカルナテ・プレソ天文台での発見という事であった。彼らはプロだった。

 彗星の軌道はアメリカのカニンガム博士等によって、約5年の周期彗星であることが判明し、1952年の暮れから、初めての回帰を迎えての捜索が始まった。当初高校生だった私は本田さんに励まされ、コメットハンターになった。当然、天文を始める動機となったこの彗星の再発見にかけたが、実際は花山天文台(京大)の三谷技官が発見した。なんと10等級で、近日点の通過は、最初のBAAの予報より4ヶ月も遅れていた。花山では写真にも撮られたが、この時発見した口径12cm、15xのコメットシーカーは今、香川県の「望遠鏡博物館」に展示されている。1955年、私も実際にこれを花山天文台で覗いた。

 同彗星の5回目の出現に当たる1969年には、私は自宅に「関観測所370」を設けていた。主力機は小島信久氏が研磨した口径22cmの反射赤道儀であった。他に12cmの双眼望遠鏡もあった。1969年の8月12日、問題の本田彗星は近日点に近づいて早暁の北天を速い速度で進行していた。地球に近かった。そんな時私は22cm鏡で26分間の長時間ガイド撮影を行った。しかし、「何も写っていない」という事で一旦は看過された。

 しかしよく見ると白い矢印の先端にモウロウとして煙るシミの様な天体がある。近日点通過前は濛々として、掴みどころのないイメージを呈するのは、この彗星の特色である。見場は貧弱であるが、案外あかるい12等級か? 実はこの1日後に、ムルコス氏が検出の歓声をあげたのである。実際は芸西の方が速かったが、報告が遅れたのだ。このイメージはまだ測定されていないが、ムルコス氏はさらに遡って、自分の撮影した写真から古いイメージを検出したらしい。この22cm鏡は1970年に芸西に移ってからフインレイ彗星の検出に成功するのであるが、残念だった「本田・ムルコス・パ彗星」にも1980年5月、再び発見のチャンスが訪れるのである。

(写真は1969年8月12日、3時31.1分から57.1分までの26分間の露出)
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