土佐24万石の殿様、山内容堂公は酒と星を愛した。山内家に残る天体望遠鏡は容堂公が使ったものらしい。口径が6cmほどで鏡筒は漆塗りの美しい木製である。金属部はまばゆいばかりの真鍮製、多くのアイピースの中に、サングラスやムーングラスがあることを見ても、これが地上用ではないことがわかる。ドイツ光学の名門シュナイダーとフラウンホーファーの合作である。

 1835年のハレー彗星回帰の時、おそらくこの望遠鏡が高知城の中でその姿を捉えたことと思う。坂本龍馬が生まれた年である。世は天上を舞う”龍”という事で騒いだ。この時代には彗星は一般には天体として認識されていなかったのである。
 この武家時代の望遠鏡で、ハレー彗星を見てみたい。それはどのような輝きなのか、大いに興味があった。

 ところが思わぬところでチャンスがやってきた。この山内家の望遠鏡が、修理の目的で芸西天文台に移動したのだ。折から頭上には1986年のハレー彗星が輝いていた。そこで”容堂公の望遠鏡でハレー彗星を見よう”という変わった観測会が芸西天文台で開かれたのである。
 レンズは見事に南天に輝くハレー彗星を映し出した。山内容堂も見たハレー彗星である。レンズは青の非常に強いイメージであったが見事なシャープさ。この望遠鏡は1835年以来、実に151年振りにハレー彗星を映し出したのである。

 土佐には昔から天文学者が多かった。土佐山田町で、学問の神様として知られている谷秦山は、江戸時代の暦学者であった。彼は渾天儀と言う天体の動きを説明する機械を自作して、月や太陽の動きを研究した。その後現れた高知市の川谷薊山はそれらを使って天体の運動を研究し、日食の予報を出したりした。

 当時、幕府の天文方では暦を発行し日食や月食の予報を出していたが、それには宝暦13年9月1日の日食の予報が抜けていることに気がついた。しかし幕府の天文方ではがんとして薊山の説を受け入れなかった。世間ではこの対立を大いに注目した。しかし予報は見事的中した。薊山の日食の予報の当日、彼の住む高知市の比島山の上空には見事な日食が輝いた。こうして天文家としての薊山の名は日本国中に轟いたのである。

 ”江戸時代の天文学は土佐の山間より始まった”という考えは聊か行き過ぎであろうか?

(写真は川谷薊山が作ったとされる江戸時代の渾天儀。山内家の宝物館所蔵)

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