土佐24万石の最期の殿様、容堂公の望遠鏡で、天下のハレー彗星を見たのは大成功であった。そして今度はさらにこれで彗星の捜索を行い発見したらどんなものだろうと思った。この、想像してもぞくぞくするような彗星探しを、ハレーの去った夜空で実際におこなったのである。
望遠鏡は口径6cmで、28倍を使用した。アイピースはアメリカ規格でやや大きかった。視界は45度で実視野は1.5度とれた。考えて見るとフランスのメシエやポンは今から250年ほど昔の18世紀に彗星探しを始めた。そして生涯10個以上の彗星を発見した。彼らの使っていたコメットシーカーは、偶然にも50〜60mmの口径であった。
ポンは生涯28個の新彗星を発見したと言われているが、彼は面白い事にパリの天文台の門番であった。夜になると門番をしながら、近くの庭の繁みの中で、一心に彗星を探していたという。一方容堂公が使ったとされる望遠鏡も、同じような口径で、ポンやメシエの活躍した頃に作られたものらしい。これは、もしかしたらポンやメシエのようにいけるかもしれない。芸西天文台のドームの傍らで、私は一心に彗星の捜索に務めたのである。
あの大ハレーの去った後の天界にはやや空虚な空気がただよっていた。ここでもし新彗星でも発見したら、天界は、再び盛り上がるに違いない。1986年11月の明け方だった、東天に登って来る獅子座付近を捜索している時、ふいに東に移動する天体を発見した。「ヤッター」と一瞬躍り上がったが、それは何と明るい人工衛星であった。
江戸時代の望遠鏡が初めて近代的な天体の光を通したのである。人工衛星を追う容堂の望遠鏡、発見ではなくても、なんと素晴らしい事ではないか、と思った。
山内家の望遠鏡は今も大事に保管されている。時々望遠鏡や、渾天儀は一般に公開されているが、ハレー彗星を覗いた古い望遠鏡は、立派な修理が行われて、今も事あるたびに一般に展示されている。ある日二人の親子が見にやってきた。
「ホラ、山内の殿様が覗いた望遠鏡よ」と母親が言う。小学生らしい少年は、興味深く眺め「お母さん、僕これで星を見てみたいな」と言う。「お殿様は天守閣から、いつもこれで下を見ていたそうよ」と言って母親は笑った。
〈写真は展示会での山内家の天体望遠鏡)
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望遠鏡は口径6cmで、28倍を使用した。アイピースはアメリカ規格でやや大きかった。視界は45度で実視野は1.5度とれた。考えて見るとフランスのメシエやポンは今から250年ほど昔の18世紀に彗星探しを始めた。そして生涯10個以上の彗星を発見した。彼らの使っていたコメットシーカーは、偶然にも50〜60mmの口径であった。
ポンは生涯28個の新彗星を発見したと言われているが、彼は面白い事にパリの天文台の門番であった。夜になると門番をしながら、近くの庭の繁みの中で、一心に彗星を探していたという。一方容堂公が使ったとされる望遠鏡も、同じような口径で、ポンやメシエの活躍した頃に作られたものらしい。これは、もしかしたらポンやメシエのようにいけるかもしれない。芸西天文台のドームの傍らで、私は一心に彗星の捜索に務めたのである。
あの大ハレーの去った後の天界にはやや空虚な空気がただよっていた。ここでもし新彗星でも発見したら、天界は、再び盛り上がるに違いない。1986年11月の明け方だった、東天に登って来る獅子座付近を捜索している時、ふいに東に移動する天体を発見した。「ヤッター」と一瞬躍り上がったが、それは何と明るい人工衛星であった。
江戸時代の望遠鏡が初めて近代的な天体の光を通したのである。人工衛星を追う容堂の望遠鏡、発見ではなくても、なんと素晴らしい事ではないか、と思った。
山内家の望遠鏡は今も大事に保管されている。時々望遠鏡や、渾天儀は一般に公開されているが、ハレー彗星を覗いた古い望遠鏡は、立派な修理が行われて、今も事あるたびに一般に展示されている。ある日二人の親子が見にやってきた。
「ホラ、山内の殿様が覗いた望遠鏡よ」と母親が言う。小学生らしい少年は、興味深く眺め「お母さん、僕これで星を見てみたいな」と言う。「お殿様は天守閣から、いつもこれで下を見ていたそうよ」と言って母親は笑った。
〈写真は展示会での山内家の天体望遠鏡)
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