明治時代に現れたハレ—彗星は、当時の文明開化のシンボルだったはずだ。しかし日ロ戦争の終わった後の日本では、まだ彗星を不吉の前兆として見る根強い迷信がはびこっていた。また悪質な業者がハレー彗星を利用して、さまざまな商品を巧みに宣伝して金もうけしようとした。
しかし中にはハレー彗星を科学として正しく捉え、国内での天文学の普及に努めようとした会社もあった。ハレー彗星の接近を報道する当時の「東京朝日新聞」の広告の中に「新撰恒星図」の宣伝が出ており、折から接近中のハレー彗星の観測を奨励していた。
星座観察には星座早見盤と星図、それに適当な双眼鏡があれば最小限楽しむことが出来る。7x50くらいの双眼鏡があれば、彗星も7〜8等級まで観測可能である。さらに遠くまで追跡するなら、適当な天体望遠鏡が必要となる。星図には、彗星の予報位置を記入して長く追跡するのである。ハレー彗星の時発売された星図は、恐らく日本で最古の星図の一つで、肉眼で見える恒星と、彗星と間違いそうな明るい星団や星雲も記載されている。
日本での星図の歴史になるが、大正時代に一枚刷りの「草場星図」が発売された。そして昭和に入ってから、村上忠敬氏が作成した「村上星図」が一般の人気を得た。1950年に私が彗星の捜索を始めたとき、入手したのがこの「村上星図」であった。冊子になった使いやすい星図で、5年以上の長きに渡って愛用した。この星図で特筆すべきは1950年5月、高知市で天文館(プラネタリウム)を開業した時、星座の投影儀作成の基礎になったことである。全天の数千個の恒星の位置を大小のドリルの針であけていった。
こうして完成したプラネタリウムは当時、東洋で2番目の貴重のものとして大きな反響を呼んだ。高知市の鷲尾山の上から”南十字星”の一角(アケルナー)が見えることを発見したのもこの時であった。そして信じられない不思議な事件も起こった。今は誰も知らなくなった高知市のプラネタリウムの秘話を、またお話する機会もあろう。お楽しみに!


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星座観察には星座早見盤と星図、それに適当な双眼鏡があれば最小限楽しむことが出来る。7x50くらいの双眼鏡があれば、彗星も7〜8等級まで観測可能である。さらに遠くまで追跡するなら、適当な天体望遠鏡が必要となる。星図には、彗星の予報位置を記入して長く追跡するのである。ハレー彗星の時発売された星図は、恐らく日本で最古の星図の一つで、肉眼で見える恒星と、彗星と間違いそうな明るい星団や星雲も記載されている。
日本での星図の歴史になるが、大正時代に一枚刷りの「草場星図」が発売された。そして昭和に入ってから、村上忠敬氏が作成した「村上星図」が一般の人気を得た。1950年に私が彗星の捜索を始めたとき、入手したのがこの「村上星図」であった。冊子になった使いやすい星図で、5年以上の長きに渡って愛用した。この星図で特筆すべきは1950年5月、高知市で天文館(プラネタリウム)を開業した時、星座の投影儀作成の基礎になったことである。全天の数千個の恒星の位置を大小のドリルの針であけていった。
こうして完成したプラネタリウムは当時、東洋で2番目の貴重のものとして大きな反響を呼んだ。高知市の鷲尾山の上から”南十字星”の一角(アケルナー)が見えることを発見したのもこの時であった。そして信じられない不思議な事件も起こった。今は誰も知らなくなった高知市のプラネタリウムの秘話を、またお話する機会もあろう。お楽しみに!


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