静岡県の浜名湖の近くに住む池谷薫さんは反射鏡を研磨する珍しいコメットハンターである。発見する度に望遠鏡(全自作)を変えていくという面白い習性があった。「第2イケヤ彗星」を発見したのは、1964年の今頃(7月中旬)であった。
自分で研磨した口径15cmのイソゲナ(変わった)形のコメットシーカーを、操作して浜名湖の上の超低空を捜索しているとき、ヒアデスの星団群の中に7等級に光る小さなコマの彗星を発見した。実はその少し前に、明け空での”ホンダ彗星”の発見があった。池谷さんは、てっきり本田彗星と思って、本田さんの倉敷天文台に報告してきた。
報せを受けた本田さんは慌てた。実は、その場所にはいないはずだった。当然そのことは東京天文台に報告された。ここに”第2イケヤ彗星”の誕生となった。絢爛たるヒアデス星団の中を運航していく小さな彗星の姿は印象的であった。地平高度は僅かに10度。彗星の捜索は、この辺の低空まで見ることが必要である。当然、太陽に近いほど明るいのである。
池谷さんは、今はプロの反射鏡の名製作者であるが、その駆け出しは1960年頃、香川県多度津町の仲順三郎氏が天文雑誌に書いた”反射鏡の磨き方”の記事にあった。研磨の材料を注文してきたそうである。人よしの仲氏は「荒擦りくらいはやってあげましょうか?」と言うと彼は「自分ですべてやります」と応えたという。何事も自分で体験して行こう、という精神が、今日の強靭な池谷さんを作り上げたものと思う。
池谷さんは定時制高校に通っているとき、受け持ちの先生が修学旅行を高知に決定した。”イケヤ・セキ彗星”発見の後の事で、二人は会いたくてもなかなか会うチャンスが無いだろう、と考えた先生の暖かい思いやりであった。こうして彼は私の観測台に立ったのである。かつて浜名湖の湖の上にイケヤ・セキ彗星の輝きを見た。今度は高知市の筆山の上に尾を引いた雄大な彗星の姿を想像したのであった。
(写真は1962年7月、ヒアデス星団の近くを悠々と進行する第2イケヤ彗星C/1964 N1、倉敷天文台撮影)


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自分で研磨した口径15cmのイソゲナ(変わった)形のコメットシーカーを、操作して浜名湖の上の超低空を捜索しているとき、ヒアデスの星団群の中に7等級に光る小さなコマの彗星を発見した。実はその少し前に、明け空での”ホンダ彗星”の発見があった。池谷さんは、てっきり本田彗星と思って、本田さんの倉敷天文台に報告してきた。
報せを受けた本田さんは慌てた。実は、その場所にはいないはずだった。当然そのことは東京天文台に報告された。ここに”第2イケヤ彗星”の誕生となった。絢爛たるヒアデス星団の中を運航していく小さな彗星の姿は印象的であった。地平高度は僅かに10度。彗星の捜索は、この辺の低空まで見ることが必要である。当然、太陽に近いほど明るいのである。
池谷さんは、今はプロの反射鏡の名製作者であるが、その駆け出しは1960年頃、香川県多度津町の仲順三郎氏が天文雑誌に書いた”反射鏡の磨き方”の記事にあった。研磨の材料を注文してきたそうである。人よしの仲氏は「荒擦りくらいはやってあげましょうか?」と言うと彼は「自分ですべてやります」と応えたという。何事も自分で体験して行こう、という精神が、今日の強靭な池谷さんを作り上げたものと思う。
池谷さんは定時制高校に通っているとき、受け持ちの先生が修学旅行を高知に決定した。”イケヤ・セキ彗星”発見の後の事で、二人は会いたくてもなかなか会うチャンスが無いだろう、と考えた先生の暖かい思いやりであった。こうして彼は私の観測台に立ったのである。かつて浜名湖の湖の上にイケヤ・セキ彗星の輝きを見た。今度は高知市の筆山の上に尾を引いた雄大な彗星の姿を想像したのであった。
(写真は1962年7月、ヒアデス星団の近くを悠々と進行する第2イケヤ彗星C/1964 N1、倉敷天文台撮影)


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