「本田第4彗星」は、1955年の7月下旬にオリオン座の南に発見された。早暁4時の事で、位置は東南のエリダナスとの境界線付近である。光度は8等級で、尾はほとんど見えなかった。
それまでの本田さんは、15cmの反射望遠鏡や、10cmの双眼望遠鏡を使用していたが、今回は様子が違っていた。望遠鏡は円形の床に固定され、床全体がモーターで回転するようになっていた。人間は全く動かず、床が回ってくれるので、接眼レンズに眼を当てているだけで星空の景色は水平に移り変わっていった。
彗星を発見するコメットシーカーは、昔から観測者によって、さまざまに形を変え変貌していったが、床が回転するアイデアは、この時の本田さんが初めてであった。それによって、能率が上がるというものではなく、観測者が楽に観測できるだけである。このことは同年8月の花山天文台における「彗星会議」で披露され、多くの人が驚かされた。
さて問題はここからである。花山天文台の三谷哲康氏は、発見されると間もなく三日間の連続観測を行ったが、毎日0.5等ずつ増光しているという。しかし、この三日間の明るさを示す方向係数は、往々にして、次はマイナス傾向を示すものである。そうして、全体の光度曲線に沿って、少しずつ増減を繰り返すものだが、悪い言葉で表現すれば”早トチリ”と言うかOAAの計算を担当していたH氏は、この三つの観測値を結んで長期の予報を出したからたまらない。結果は、8月下旬にはマイナス等級の半月から満月の明るさに相当する値(予報)が出たのである。
計算の結果は”大彗星出現”と言う事で、OAA本部の山本天文台からマスコミに流れて世間は騒いだ。私の知る近くの教会の牧師さんは、毎朝3時に起きて東の空を見たが何も見えなかった、という。その月の下旬に京大の花山天文台で開かれた”彗星会議”で、そのことが大きな問題となった。アメリカのカニンガム博士の発表した予報では最大5.5等星で、実際とぴたりと一致していた。老練というか、何もかも知り尽くしたベテランの見事な計算であった。
(写真は発見直後の”ホンダ彗星”C/1955 O1、花山天文台)


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それまでの本田さんは、15cmの反射望遠鏡や、10cmの双眼望遠鏡を使用していたが、今回は様子が違っていた。望遠鏡は円形の床に固定され、床全体がモーターで回転するようになっていた。人間は全く動かず、床が回ってくれるので、接眼レンズに眼を当てているだけで星空の景色は水平に移り変わっていった。
彗星を発見するコメットシーカーは、昔から観測者によって、さまざまに形を変え変貌していったが、床が回転するアイデアは、この時の本田さんが初めてであった。それによって、能率が上がるというものではなく、観測者が楽に観測できるだけである。このことは同年8月の花山天文台における「彗星会議」で披露され、多くの人が驚かされた。
さて問題はここからである。花山天文台の三谷哲康氏は、発見されると間もなく三日間の連続観測を行ったが、毎日0.5等ずつ増光しているという。しかし、この三日間の明るさを示す方向係数は、往々にして、次はマイナス傾向を示すものである。そうして、全体の光度曲線に沿って、少しずつ増減を繰り返すものだが、悪い言葉で表現すれば”早トチリ”と言うかOAAの計算を担当していたH氏は、この三つの観測値を結んで長期の予報を出したからたまらない。結果は、8月下旬にはマイナス等級の半月から満月の明るさに相当する値(予報)が出たのである。
計算の結果は”大彗星出現”と言う事で、OAA本部の山本天文台からマスコミに流れて世間は騒いだ。私の知る近くの教会の牧師さんは、毎朝3時に起きて東の空を見たが何も見えなかった、という。その月の下旬に京大の花山天文台で開かれた”彗星会議”で、そのことが大きな問題となった。アメリカのカニンガム博士の発表した予報では最大5.5等星で、実際とぴたりと一致していた。老練というか、何もかも知り尽くしたベテランの見事な計算であった。
(写真は発見直後の”ホンダ彗星”C/1955 O1、花山天文台)


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