1948年12月、友人の家で観測中に現れた奇妙な紳士、それは一体何者なのか?その横顔を見た瞬間、何ゆえにそのように驚かなくてはならなかったのか?それにはある重大な過去の秘密が絡んでいるのであるが、その事は一旦筆を休め、ここではその少し前に体験した不思議な出来事から話さなくてはなりますまい。

 高知県は、昔から”陸の孤島”と言われた交通の不便な場所であった。1936年頃、全国で一番遅れて、高松—高知間の列車が開通した。それを記念する博覧会が、ここ高知市で1937年(昭和12年)に開催されたのである。
 博覧会の会場には、高知県の特産品を宣伝するコーナーや、更にサーカスや、お化け屋敷なんかの見世物が併設されていたが、小学に上がったばかりの少年(私)には、それらの娯楽施設の方に興味があったのである。

 長い迷路のような幽霊屋敷の中を、怖いお化けに追いかけられるようにして逃げまわり、最後に到着したのが「太陽館」だった。三階建ての建物の上に銀色のドームが輝いていた。怖いお化けから解放されてホッとした気分で中に入ると、そこにも白い着物を着て、額に三角の幽霊のシンボルを貼り付けた幽霊?が待っていた。慌てて逃げようとすると「坊や、おじさんは怖い幽霊なんかじゃない。星を見せるおじさんだよ。こちらにお入り」と言って、薄暗い天文台の中に私を招き入れたのである。

 なんとお化け屋敷の最後の見世物は天文台だった。あとでわかったことであるが、東京の五藤斉三氏は、今回の博覧会に合わせて自社製の天文台を出品することになった。しかしそのスペースが取れず、仕方なく幽霊屋敷の片隅に天文台を設け、自分も幽霊の姿になって、お客さんの相手をしたという事であった。
 この1937年は11年に一度の太陽黒点の最盛期で、多くのお客さんに珍しい太陽黒点を観せたのである。それから実に40年たって、芸西村の天文台に出没した幽霊も同一人物だったとしたら、辻褄が合うのである。

 高知県出身の五藤氏は望遠鏡の製作者であるとともに、天文学の教育者でもあった。戦前の高知市と戦後の芸西村に天文台を建てたのも、故郷での天文教育を目指したもので、彼の故郷への貢献は実に大きいのである。

(写真は東京世田谷の自宅の天文台の前に立つ五藤斉三氏と筆者。1975年頃)
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