時は1937年4月。私が小学校一年になったばかりの春でした。
土讃線開通を記念した大博覧会が、近くの鏡川のほとりの大原町の広場であって、私は父母に連れられて見物に行きました。鏡川の沈下橋(日本最初の沈下橋)を渡っていると、会場の方から拡声器の音声が水面を伝って流れてきました。
それは「美ち奴」が歌って大流行した「ああそれなのに」で、当時の退廃的と言うか、なんとなく堕落した退屈な世相を歌ったサトウハチローの詩でした。
会場には、珊瑚や水産に象徴されるような、土佐の特産品が多く並べられてありましたが、子供の私にはサーカスや幽霊屋敷の方に興味があって、怖い屋敷の中に入ったのです。
ああ、それがそれから一生続く天文学との出会いの門になろうとは、誰が想像したでしょう。人生とは誠に奇なものです。
お化け屋敷の中では数々の怖い光景を見ました。あまりに恐ろしいから、竹藪の中で佇んで居ると、近くの古井戸の中から「お菊」の幽霊が物凄い形相をしてヌウーッと浮かんで来ました。私は「ヒヤーッ」と叫んで竹藪を懸命に駆け抜けました。
走り抜けた所は、ちょっとした広場になっていました。丸いドームのある小さな建物があって、中から一人のおじさんが出てきました。
そして「僕、いいものを見せてあげよう」と言って、私をドームの中に招き入れてくれたのです。
それは、博覧会場の中に造られた(太陽館)でした。その小さな天文台の主こそ、高知県出身の五藤斎三氏だったのです。
五藤式の天体望遠鏡で見た太陽の黒点は、今でも鮮明に覚えています。この年は丁度10年周期でやって来る太陽活動のピークの年でした。
こうして五藤氏とは偶然の出会いでしたが、その40年後には再び縁が出来て、芸西天文台へと発展していこうとは、誰が予想したでしょう。
それは神様しか知らない私たちの運命だったのです。
(写真は1937年、私が見た頃の太陽面。五藤光学研究所、提供)
土讃線開通を記念した大博覧会が、近くの鏡川のほとりの大原町の広場であって、私は父母に連れられて見物に行きました。鏡川の沈下橋(日本最初の沈下橋)を渡っていると、会場の方から拡声器の音声が水面を伝って流れてきました。
それは「美ち奴」が歌って大流行した「ああそれなのに」で、当時の退廃的と言うか、なんとなく堕落した退屈な世相を歌ったサトウハチローの詩でした。
会場には、珊瑚や水産に象徴されるような、土佐の特産品が多く並べられてありましたが、子供の私にはサーカスや幽霊屋敷の方に興味があって、怖い屋敷の中に入ったのです。
ああ、それがそれから一生続く天文学との出会いの門になろうとは、誰が想像したでしょう。人生とは誠に奇なものです。
お化け屋敷の中では数々の怖い光景を見ました。あまりに恐ろしいから、竹藪の中で佇んで居ると、近くの古井戸の中から「お菊」の幽霊が物凄い形相をしてヌウーッと浮かんで来ました。私は「ヒヤーッ」と叫んで竹藪を懸命に駆け抜けました。
走り抜けた所は、ちょっとした広場になっていました。丸いドームのある小さな建物があって、中から一人のおじさんが出てきました。
そして「僕、いいものを見せてあげよう」と言って、私をドームの中に招き入れてくれたのです。
それは、博覧会場の中に造られた(太陽館)でした。その小さな天文台の主こそ、高知県出身の五藤斎三氏だったのです。
五藤式の天体望遠鏡で見た太陽の黒点は、今でも鮮明に覚えています。この年は丁度10年周期でやって来る太陽活動のピークの年でした。
こうして五藤氏とは偶然の出会いでしたが、その40年後には再び縁が出来て、芸西天文台へと発展していこうとは、誰が予想したでしょう。
それは神様しか知らない私たちの運命だったのです。
(写真は1937年、私が見た頃の太陽面。五藤光学研究所、提供)
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