先に述べたフランスのコメットハンター「ポン」は、メシエと共に19世紀を代表する発見者だった。これら二人は口径2インチ半(60mm)くらいの実に小さな屈折望遠鏡を駆使して、多くの彗星を発見した。ポンはパリの天文台の門番をしながら観測していたという。

 一方メシエは、捜索中に彗星と間違えそうな全天の星雲や星団、それに銀河を記録(有名なメシエ番号)して行ったが、それらの銀河の中には到底2インチの望遠鏡では見えないと思うような、暗い天体も含まれている。当時のフランスの空は抜群に良かったものと思う。

 一方20世紀に現れたアントンムルコスは、当時のチエコ・スロバキアのプロ天文家だった。海抜1400mの、タトラ山中の天文台に立てこもって1950〜1959年の約10年間に10個以上の新彗星を発見した。「本田・ムルコス・パジュサコヴァ彗星」は有名で、約5年の周期で毎回観測されている。彼の使っていた口径10cm(25x)の双眼望遠鏡は、対空用でアイピースは70度の広視角を持つ特殊な高性能双眼機であった。

 当時は何しろ”鉄のカーテン”の中での作業で、詳しい事はわからなかったが、1970年代になって国際天文学連合の総会がこの国で開かれて謎だった”秘密兵器”を見学するチャンスがあった。宣伝のパンフレットでは、サンダルをはいた女性(パジュサコヴァ女史)が覗いている姿が写っていたが、実際の観測は氷点下数十度の過酷な雰囲気の中で、電熱の防寒服を身にまとって観測するというものものしい姿であった。

 ムルコスは最後には、さらに高い海抜2000mのところにある気象台に上がって捜索を続けたというが、正に”彗星を呼ぶムルコス”の名にふさわしい多くの成果を上げたのである。中でも1957年8月に発見したC/1957P1は、肉眼的な大彗星であった。日本でも富士山の山頂からの独立発見者がいた。
 この同じ時代に生きた私は、ある意味では不幸であった。折角発見しても、以前にムルコスが発見していた、というケースが多かった。しかし捜索を続けるうちに、1961年10月の「関彗星1961T1」の発見にこぎつけたのである。
 彗星の発見を一言でいうなれば、それは”忍耐”の一語に尽きる。

(写真は1957年8月のムルコス彗星)

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