坂本龍馬は鏡川に近い、上町1丁目に生家があった関係で、子供の頃には良く鏡川で遊んだらしい。そして築城屋敷町の、剣術の道場に通った。今となってその道場の跡を発見することは難しいが、この町は歴史が古く昔の儘の姿で残っている家が多く、あるいは痕跡が残っているかもしれないとの期待もあった。
先にお話した山崎家から東に100mほど歩くと、そこに古い門構えの家があった。閑散として人の気配はないが、いかにも江戸時代の武家屋敷を思わす様な古い門構えである。龍馬少年は、この門を度々くぐっていたのだろうか?
龍馬は、成人して上京し、千葉道場の門下生になった。北辰一刀流である。免許皆伝の、腕前であったと言うが、試合では度々敗れている。なによりも残念なのは慶應3年11月、京の近江屋で中岡と密談中に、刺客に襲われて命を落としたことである。敵に追われる身の、武士としての油断があったのだ。日本の近代化に努力した龍馬の惜しい最期である。
戦前、小学生の頃、修学旅行でこの史跡を訪ねたが、惨劇のあった、近江屋は川原町にそのまま残っていた。土蔵の古い二階建てであった。それから半世紀余りたって、戦後、再び訪ねたが昔の面影もは全くなく、町並みも変わっていた。「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地」と言う小さな石碑が繁華街の一角に虚しく残っていた。


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先にお話した山崎家から東に100mほど歩くと、そこに古い門構えの家があった。閑散として人の気配はないが、いかにも江戸時代の武家屋敷を思わす様な古い門構えである。龍馬少年は、この門を度々くぐっていたのだろうか?
龍馬は、成人して上京し、千葉道場の門下生になった。北辰一刀流である。免許皆伝の、腕前であったと言うが、試合では度々敗れている。なによりも残念なのは慶應3年11月、京の近江屋で中岡と密談中に、刺客に襲われて命を落としたことである。敵に追われる身の、武士としての油断があったのだ。日本の近代化に努力した龍馬の惜しい最期である。
戦前、小学生の頃、修学旅行でこの史跡を訪ねたが、惨劇のあった、近江屋は川原町にそのまま残っていた。土蔵の古い二階建てであった。それから半世紀余りたって、戦後、再び訪ねたが昔の面影もは全くなく、町並みも変わっていた。「坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地」と言う小さな石碑が繁華街の一角に虚しく残っていた。

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