大正9年に「関製紙工場」の操業の様子を撮影した人物は、伯父の「関琴堂」であった。琴堂は本名を「関光恵」と言って、書家であり、母の兄であった。琴堂は新しいものを取り込むことが好きで、本職の書道のほかにバイオリンやオルガンを弾き、朝顔式のラッパの付いた蓄音機で洋楽を楽しんだ。何よりも貴重だったのは、当時のガラス乾板時代の写真機を愛用したことであった。ラジオ放送は始まっていたものの、高知県には中継の放送局がなくラジオは聞けなかった。そんな時高性能の電池式受信機を自作して、ダイレクトに大阪からの放送を聞いていた。世はまさに”大正ロマン”。ゲーテの詩も愛読したらしく、代表作の「愛する人と共に」のページには、可憐な押し花が潜められてあった。
当時は、高知市には写真のDP店は一軒もなく、全部自分で材料を取り寄せて現像焼き付けをした。そのおかげで高知市での昔の災害や、いろんな出来事が記録されていた。アメリカの飛行士「フランクチャンピオン」が高知市上空で曲芸飛行をやって片翼が折れて墜死したが、その落下する様子が地上寸で撮影されていた。事故を証明するたった1枚の貴重な資料であったが、残念ながらネガを昭和20年の大空襲で焼失した。
丁度その頃、鏡川畔の広っぱで、畳6畳分の大凧を揚げている様子が写っていたが、琴堂の父の丑郎が作って揚げていたものらしかった。戦前の高知県では「これでもか、これでもか!」と大凧を作って競う”凧揚げ合戦”が演じられていたという。大凧は風船爆弾と同じ土佐和紙で出来ていた。そして、今は忘れられた土佐の名物史でもあったという。筆山の空に、無数の大凧小凧が、冬の晴れた空に舞う姿はさぞかし壮観であったろう。青や黄のジャワラ(尾)が、青空に美しく映えた。”凧長”という凧揚げの名人がいたらしいが、今はわからぬ。
琴堂は関家の異色の存在らしかった。昭和9年、36歳の若さで逝去したが、その彼の悪趣味?を、受け継いだのが琴堂と入れ違いに生まれてきた私であったらしい。私の趣味としての”スパイカメラ”は、小学生のころから始まった。そして、成人してからの天体望遠鏡作りと彗星の捜索。流石の琴堂も、ここまではやらなかったらしい。
(写真は琴堂と愛読したゲーテの詩集)


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当時は、高知市には写真のDP店は一軒もなく、全部自分で材料を取り寄せて現像焼き付けをした。そのおかげで高知市での昔の災害や、いろんな出来事が記録されていた。アメリカの飛行士「フランクチャンピオン」が高知市上空で曲芸飛行をやって片翼が折れて墜死したが、その落下する様子が地上寸で撮影されていた。事故を証明するたった1枚の貴重な資料であったが、残念ながらネガを昭和20年の大空襲で焼失した。
丁度その頃、鏡川畔の広っぱで、畳6畳分の大凧を揚げている様子が写っていたが、琴堂の父の丑郎が作って揚げていたものらしかった。戦前の高知県では「これでもか、これでもか!」と大凧を作って競う”凧揚げ合戦”が演じられていたという。大凧は風船爆弾と同じ土佐和紙で出来ていた。そして、今は忘れられた土佐の名物史でもあったという。筆山の空に、無数の大凧小凧が、冬の晴れた空に舞う姿はさぞかし壮観であったろう。青や黄のジャワラ(尾)が、青空に美しく映えた。”凧長”という凧揚げの名人がいたらしいが、今はわからぬ。
琴堂は関家の異色の存在らしかった。昭和9年、36歳の若さで逝去したが、その彼の悪趣味?を、受け継いだのが琴堂と入れ違いに生まれてきた私であったらしい。私の趣味としての”スパイカメラ”は、小学生のころから始まった。そして、成人してからの天体望遠鏡作りと彗星の捜索。流石の琴堂も、ここまではやらなかったらしい。
(写真は琴堂と愛読したゲーテの詩集)


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