終戦後間もない1948年頃、ヘプバーンの主演した映画に「ローマの休日」という名画があった。その中で、日本製の「エコー」というライターカメラが活躍したが、本物のスパイカメラは、戦前にその目的で作られた「ミノックス」に始まると思う。
「ミノックス」カメラはフィルムの幅が僅か9.5mmの極小カメラで、第一次大戦後、地中海に面したバルト3国の中の一つ、ラトビアのリガで作られた。カメラの発明者とされる「ザップ」は、第二次大戦中ドイツに亡命逃走し、ドイツの難民キャンプの中で、本格的な製造が始まったと言われている。
極小カメラとしてのミノックスは、当然大戦中のスパイ活動に参加し、敵国の工場や軍港の盗み撮りに活躍した。戦後は産業スパイ活動に使用された。そして平和な時代の今、多くのカメラファンに珍しい極小カメラとして愛用されているのである。ミノックスはその歴史の中に最初のA型から最近のLX型まで、そのバリエーションが5個以上ある。
ミノックスを天体のスパイ撮影?に活用したのは恐らく私が最初であったと思う。忘れられないのは、2001年10月の「しし座流星群」の突然の大出現の記録である。流星群はその頃低調で、全く期待していなかった。10月18日の晩だった。芸西の天文台に行くと、夕方なのに東の地平線から、まるで曳光弾のような、火の玉が頭上を通り越して、はるか西の高知市の空に消えて行く。同時に二つ三つ現れては炸裂する。
この時、私は何時でもポケットに潜んでいるミノックスカメラをとりだした。そして火球が現れた瞬間を見計らって、シャッターを押した。なんと三脚なしでの手持ちのタイム露出である(10秒)。星は少しブレたが、カメラの速写性が働いて、マイナス7等級の大火球の撮影に成功したのである(写真左)。
ミノックスカメラは天体ばかりに使用していたのではない。その携帯性にすぐれていることから、いつでも私の体の一部としてあった。いつか足摺岬に旅した時、珍しい岩場の海溝を発見した。満月の晩、ウミガメの親子が泳ぎ出てくるという、地元に伝わる「亀の子」という”わらべうた”の現場はここではないか、と思った。頭の中にそのメロディが浮かんできた。
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「ミノックス」カメラはフィルムの幅が僅か9.5mmの極小カメラで、第一次大戦後、地中海に面したバルト3国の中の一つ、ラトビアのリガで作られた。カメラの発明者とされる「ザップ」は、第二次大戦中ドイツに亡命逃走し、ドイツの難民キャンプの中で、本格的な製造が始まったと言われている。
極小カメラとしてのミノックスは、当然大戦中のスパイ活動に参加し、敵国の工場や軍港の盗み撮りに活躍した。戦後は産業スパイ活動に使用された。そして平和な時代の今、多くのカメラファンに珍しい極小カメラとして愛用されているのである。ミノックスはその歴史の中に最初のA型から最近のLX型まで、そのバリエーションが5個以上ある。
ミノックスを天体のスパイ撮影?に活用したのは恐らく私が最初であったと思う。忘れられないのは、2001年10月の「しし座流星群」の突然の大出現の記録である。流星群はその頃低調で、全く期待していなかった。10月18日の晩だった。芸西の天文台に行くと、夕方なのに東の地平線から、まるで曳光弾のような、火の玉が頭上を通り越して、はるか西の高知市の空に消えて行く。同時に二つ三つ現れては炸裂する。
この時、私は何時でもポケットに潜んでいるミノックスカメラをとりだした。そして火球が現れた瞬間を見計らって、シャッターを押した。なんと三脚なしでの手持ちのタイム露出である(10秒)。星は少しブレたが、カメラの速写性が働いて、マイナス7等級の大火球の撮影に成功したのである(写真左)。
ミノックスカメラは天体ばかりに使用していたのではない。その携帯性にすぐれていることから、いつでも私の体の一部としてあった。いつか足摺岬に旅した時、珍しい岩場の海溝を発見した。満月の晩、ウミガメの親子が泳ぎ出てくるという、地元に伝わる「亀の子」という”わらべうた”の現場はここではないか、と思った。頭の中にそのメロディが浮かんできた。
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