私が生まれた関家の2階の片隅に、四畳半くらいの物置があった。子供のころから何が入っているだろうと思って大いに興味があったが、父から「お化けが出る」と言われて、滅多に入ることが無かった。そういわれるとますます好奇心が湧いて、成人したある日、秘かに重いドアを開けて入ってみた。

 狭く暗い中に沢山の古い家具類が押し込まれていた。そして昔の蓄音機や小型のオルガンに先込め式の空気銃。作りかけのラジオ受信機。そして1冊の「ゲーテ」の詩集。これらは昭和の初期に亡くなった伯父「琴堂」の遺品らしかった。伯父が描いたらしい何枚かの水彩画が古い壁に貼ってあった。昔見たどこかの風景らしかったが、その時には思い出せなかった。
 ところが不思議なことに、四国山脈らしい連山の上に、彗星の如く光る細長い雲が描かれていた。一般の人には白い夏の雲と見えるが、私には長い彗星の尾を聯想させられた。古代の人が描いたハレー彗星の絵のような情景だった。

 私の父(亀寿)は明治30年生まれで、明治42年に見たハレー彗星の事をよく覚えていた。その様子を、事あるたびに私に語った。小学6年生のころで、ある日彗星が太陽面を通過するというので、主任の先生が校庭で指導して”イブシガラス”を使って観測を試みたという。その主任の先生と言うのが有名な教育者の「坂本重寿」氏であったという。(のち初代の高知文教協会の理事長)。私たちは今、文教協会の主催する「芸西天文学習館」で、天文の講師を務めているのである。なんという奇縁!
 父は単なる商売人で、ほとんど科学を理解しなかったが、父と同年代の伯父は必ずハレー彗星に興味を示し、何らかの資料を残している、と考えていた。この物置小屋に残されていたスケッチこそが、彼の描いたハレー彗星の姿ではないか?と、半ば納得したのである。
 
 高知県の輩出した物理学者、寺田寅彦博士はあらゆる自然現象に興味を持ち、随筆集に書きのこしている。それなのに地球に大接近して「世界の終りか!?」と、世界的に騒がれたハレー彗星の記述が全く無いのである。私が勝手に描いた大いなる疑問のひとつである。
 明治の終り頃、浦戸湾で「はらみのジャン」と言われた恐ろしい海鳴りの事は書いてある。それは陥没してできた浦戸湾海底の一種の地鳴りである、と説明してある。おなじころ現れたもっと恐ろしい、そして重大なハレー彗星について全く触れられていないのは不自然である。
 
 さて、ここでもう一度古い物置小屋の中に戻ろう。足元に散らばっている作りかけのラジオ受信機に、頭にかけるレシーバー。そのそばに見たこともない奇妙な道具が置いてあるのを発見して「ハッ」とした。(一体これは・・・?)と独りつぶやいて、その不思議な物体を取りあげたのである。

(写真は明治42年に現れたハレー彗星。東京麻布の東京天文台撮影)
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