1945年のある日、夕刊に目を通していた父は「出た!」と頓狂に叫びました。
自分の工場が生産に協力している「風船爆弾」の戦果について報道されていました。
アメリカ本土では、ある町の近郊が爆破されたり、原因不明の山火事が起こったりしました。飛行機も飛んでこないのに、高空から突然爆弾が降って来るのですからこれほどの恐怖はありません。実際の被害より、相手に極度の恐怖を与える心理作戦が成功したと言えます。しかし1千発以上も発射しながら、その大半は目的地まで届かず、海に落ちたと想像されます。
天文家でも、この作戦に協力した人がいました。それは、戦後、東京天文台の「天体掃索部」にあって、我々コメットハンターを指導した冨田弘一郎技官です。大学生の時、学徒動員として風船爆弾に使用するためのガスボンベを、汽車で房総半島の基地まで運搬したと言います。また戦後、川崎天文同好会の会長を務めていた箕輪敏行さんは、戦中、将校として川崎市の「陸軍技術研究所」に勤務し、武田照彦氏らと風船爆弾を開発したのですが、あるとき「終戦とともにリヤカーいっぱいの和紙をもらった。これは関製紙工場の製品だったようです」と私に語っていました。
風船爆弾の発射基地は結局、敵側には最後まで分からなかったようです。しかしアメリカ軍は風船から落とされた砂をサンプルとして、日本に多くのスパイを送ってきました。そして日本各地の砂浜を調査したという事ですが、その結果についてはわかりません。やがて8月15日の終戦を迎えることとなるのです。



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自分の工場が生産に協力している「風船爆弾」の戦果について報道されていました。
アメリカ本土では、ある町の近郊が爆破されたり、原因不明の山火事が起こったりしました。飛行機も飛んでこないのに、高空から突然爆弾が降って来るのですからこれほどの恐怖はありません。実際の被害より、相手に極度の恐怖を与える心理作戦が成功したと言えます。しかし1千発以上も発射しながら、その大半は目的地まで届かず、海に落ちたと想像されます。
天文家でも、この作戦に協力した人がいました。それは、戦後、東京天文台の「天体掃索部」にあって、我々コメットハンターを指導した冨田弘一郎技官です。大学生の時、学徒動員として風船爆弾に使用するためのガスボンベを、汽車で房総半島の基地まで運搬したと言います。また戦後、川崎天文同好会の会長を務めていた箕輪敏行さんは、戦中、将校として川崎市の「陸軍技術研究所」に勤務し、武田照彦氏らと風船爆弾を開発したのですが、あるとき「終戦とともにリヤカーいっぱいの和紙をもらった。これは関製紙工場の製品だったようです」と私に語っていました。
風船爆弾の発射基地は結局、敵側には最後まで分からなかったようです。しかしアメリカ軍は風船から落とされた砂をサンプルとして、日本に多くのスパイを送ってきました。そして日本各地の砂浜を調査したという事ですが、その結果についてはわかりません。やがて8月15日の終戦を迎えることとなるのです。


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