この日は曇天でしたが、部分日食のために天文台を公開し、40名の親子が集まりました。しかし終始雲が晴れず、幽かにその様子を見るにとどまりました。教室では、最も金環食に近い石垣島での太陽の欠けていく様子がインターネットで上映されました。天文台の庭からは時々雲の薄くなった瞬間の欠けた太陽像が観察されました。
長い時間でしたので、教室では過去の日食観測の思い出について語りました。江戸時代の終り、高知市の川谷薊山が、誤っていた幕府の天文方の予報を訂正した話や、近くでは1948年5月の礼文島金環日食での広瀬秀雄博士の活躍等について話しました。また同年11月、ヨーロッパで見られた皆既日食の時、偶然太陽のそばに発見された”日食彗星”が、のち明るくなって、私の彗星捜索の動機になったこともお話しました。
いつも集まって来るお客さんの中には、思いがけない人がいるものです。1986年、かのハレー彗星が接近してきた時、私は「ハレー彗星賛歌」を作詞しました。かねてから交際のあった埼玉県の鈴木健夫さんが作曲し、二人で伊豆の伊東市で初のコンサートを開きました。その時、聴衆の中にいたという方が名乗り出てきました。なつかしい思い出です。あれから35年。思い出も茫呼としてかすみましたが、あの頃は世界がハレー彗星一色でした。国内数十ヶ所で私の学術講演会も開催しました。
(写真は6月21日、16時50分ごろの芸西での部分日食とインターネットで日食を見る)
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長い時間でしたので、教室では過去の日食観測の思い出について語りました。江戸時代の終り、高知市の川谷薊山が、誤っていた幕府の天文方の予報を訂正した話や、近くでは1948年5月の礼文島金環日食での広瀬秀雄博士の活躍等について話しました。また同年11月、ヨーロッパで見られた皆既日食の時、偶然太陽のそばに発見された”日食彗星”が、のち明るくなって、私の彗星捜索の動機になったこともお話しました。
いつも集まって来るお客さんの中には、思いがけない人がいるものです。1986年、かのハレー彗星が接近してきた時、私は「ハレー彗星賛歌」を作詞しました。かねてから交際のあった埼玉県の鈴木健夫さんが作曲し、二人で伊豆の伊東市で初のコンサートを開きました。その時、聴衆の中にいたという方が名乗り出てきました。なつかしい思い出です。あれから35年。思い出も茫呼としてかすみましたが、あの頃は世界がハレー彗星一色でした。国内数十ヶ所で私の学術講演会も開催しました。
(写真は6月21日、16時50分ごろの芸西での部分日食とインターネットで日食を見る)
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