今多くの地区で梅雨前線の活発な活動による深刻な水害が頻発している。ここ高知県でも例外ではなく、私の住んでいる高知市でも、中央近くを流れる鏡川による水害は後を絶たなかった。もっとも最近では堤防が補強されて被害は少なくなったが、昔は田畑だった低い場所に多くの家が建って、水害が完全に去ったわけではない。高知県では特に天文台の在る東部で多く降った。
私が好んで散歩する鏡川の北側の長堤に妙な石碑がうもれていた。高知市の観光課が気づいて掘り出したらしく、元あった場所に建てられた。「従是東六ノ丁場」と読める。つまり、水害が起こって復旧工事を行うとき、ここより東は第6班の作業場である、という意味であろう。これは藩政時代からの習慣で、いったん水害が起これば、地元の武士も町民も協力して工事に参加したのである。これと同じ標柱は200米ほど離れた東にも残っている。
この習慣は何と昭和に入っても続いた。思い出すのは昭和21年12月に起きた南海大震災である。鏡川の下流の堤防が決壊して、地元の市民が老いも若きも復旧工事に従事したのである。私はその時中学2年生であった。鏡川の河口付近は、いわゆる海抜ゼロメーター地区で、高知市の下町の水没は半年近く続いたのである。私の通っていた中等学校も、まるで水攻めの如く、水中に孤立していた。
(上町2丁目にある水難工事の標識。龍馬の生家と共に、ここを訪れる観光客のルートの一角になっている)
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私が好んで散歩する鏡川の北側の長堤に妙な石碑がうもれていた。高知市の観光課が気づいて掘り出したらしく、元あった場所に建てられた。「従是東六ノ丁場」と読める。つまり、水害が起こって復旧工事を行うとき、ここより東は第6班の作業場である、という意味であろう。これは藩政時代からの習慣で、いったん水害が起これば、地元の武士も町民も協力して工事に参加したのである。これと同じ標柱は200米ほど離れた東にも残っている。
この習慣は何と昭和に入っても続いた。思い出すのは昭和21年12月に起きた南海大震災である。鏡川の下流の堤防が決壊して、地元の市民が老いも若きも復旧工事に従事したのである。私はその時中学2年生であった。鏡川の河口付近は、いわゆる海抜ゼロメーター地区で、高知市の下町の水没は半年近く続いたのである。私の通っていた中等学校も、まるで水攻めの如く、水中に孤立していた。
(上町2丁目にある水難工事の標識。龍馬の生家と共に、ここを訪れる観光客のルートの一角になっている)
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