ハレー彗星は紀元前から知られている大彗星である。太古の昔から長い尾を曳く沢山の姿が描かれているが、これが76年くらいの周期彗星であることが分かったのは、英国の天文学者「ハレー」が登場してからである。
1910年の回帰の時には、特に観測の条件が良く、世界的に注目された。俗界ではとんでもない迷信がはびこった。当時高知県佐川町出身の山崎正光氏は、アメリカ、カリフォルニア大学に留学していて、ハレー彗星を迎えた。その時、それを見るために作ったのが奇妙な形をした、いわゆる”山崎式コメット シーカー”であった。この原型は既にアメリカにあり、19世紀から使われていたという。
大彗星が現れるときには良く飛び入りの彗星があるものだが、この年1910年にも1月に突然予期せざる大彗星が出現してハレーを待つ人々を驚かせた。多くの人がこの先槍をハレー彗星と勘違いして〈見えた!〉と満足していた、という。山崎氏はこの、コメット シーカーを日本に持ち込んで、帰国後は水沢(今の奥州市)の天文台に持ち込んで彗星(ホルベス・山崎彗星)を発見した。この彗星はその後”クロムメリン彗星”とあらためられた。この彗星は周期28年ほどで、1956年に回帰して来て私がひと騒動起こすのであるがこれはまた、別の機会に話そう。
さてハレー彗星の1986年の回帰は、世界の学俗界でただならぬ騒動となった。日本では当然、東の東京天文台が真っ先に観測の狼煙を揚げるものと、マスコミの多くが東京に集集中した。ところがNHKの取材班だけが、高知県の芸西に来た。なんでも、世界の天文界のセンターであるスミソニアンを訪れたとき、局長のマースデン博士は意外なことを言った。「東洋で最も早くハレー彗星を発見するところとして、ニュージランドのキルマーチンか、芸西の関のところへ行け」と教えたのである。
これは決して望遠鏡がでかいというわけではない。日ごろ熱心に彗星の観測をやっている天文台を紹介したのである。
果たして結果はどうなったのか? 35年昔の観測ノートを開いてみよう。
(写真は1910年、突如飛び込んできた1月の大彗星)
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1910年の回帰の時には、特に観測の条件が良く、世界的に注目された。俗界ではとんでもない迷信がはびこった。当時高知県佐川町出身の山崎正光氏は、アメリカ、カリフォルニア大学に留学していて、ハレー彗星を迎えた。その時、それを見るために作ったのが奇妙な形をした、いわゆる”山崎式コメット シーカー”であった。この原型は既にアメリカにあり、19世紀から使われていたという。
大彗星が現れるときには良く飛び入りの彗星があるものだが、この年1910年にも1月に突然予期せざる大彗星が出現してハレーを待つ人々を驚かせた。多くの人がこの先槍をハレー彗星と勘違いして〈見えた!〉と満足していた、という。山崎氏はこの、コメット シーカーを日本に持ち込んで、帰国後は水沢(今の奥州市)の天文台に持ち込んで彗星(ホルベス・山崎彗星)を発見した。この彗星はその後”クロムメリン彗星”とあらためられた。この彗星は周期28年ほどで、1956年に回帰して来て私がひと騒動起こすのであるがこれはまた、別の機会に話そう。
さてハレー彗星の1986年の回帰は、世界の学俗界でただならぬ騒動となった。日本では当然、東の東京天文台が真っ先に観測の狼煙を揚げるものと、マスコミの多くが東京に集集中した。ところがNHKの取材班だけが、高知県の芸西に来た。なんでも、世界の天文界のセンターであるスミソニアンを訪れたとき、局長のマースデン博士は意外なことを言った。「東洋で最も早くハレー彗星を発見するところとして、ニュージランドのキルマーチンか、芸西の関のところへ行け」と教えたのである。
これは決して望遠鏡がでかいというわけではない。日ごろ熱心に彗星の観測をやっている天文台を紹介したのである。
果たして結果はどうなったのか? 35年昔の観測ノートを開いてみよう。
(写真は1910年、突如飛び込んできた1月の大彗星)
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