1984年9月、芸西でハレー彗星”発見”の、烽火が挙がると全国的に意外な反響があった。アメリカのスカイ・アンド・テレスコープ社では、早速検出写真を送るように申し込んできた。マースデン博士のコメントも発表された。しかし、何より影響したのは東京に集まっていた報道陣である。南からの突然の発見報に、総崩れとなった。
 これについてOAAの長谷川一郎氏は芸西の観測に不満を持ち、東京天文台での計画が崩れたことについて、苦言を呈してこられた。「芸西の先槍によって東京での折角の計画が崩れた。20等と言う光度はアマチュアに観測できるものではない。アマチュアは、専門家の発見の後について行くものである。」と、極めて保守的な見解をのべた。一方スミソニアンのマースデン博士は肯定的で、芸西の観測を擁護した。芸西の今回の一連の観測は洲本市の中野主一氏のチェックによって正しい事が確認され、センターに連続して報告されていたのである。

 日本でハレー彗星が確認されたことは、その後、国内での催しに影響した。多くの講演会の要請があった。北見市(高知市との姉妹都市)や、近代的な監獄で有名な網走市など3回も出かけて講演した。そして大阪では”ウェルカム ハレークラブ”が発足し、大規模な講演会を地元で開くとともに、南方にハレー彗星を追って観測会を実施することになったのである。私は代表者として1ヶ月に2度も赤道を南に超えた。

 アメデ島では忘れられない思い出があった。ハレー彗星の良く輝く晩、無人の灯台に登ってみたらどんな光景だろう、と思った。南半球で一番高い場所で彗星を観測したことになる。幸いアメデ灯台は、今は廃墟同然で、単なる観光の場所となっている。勝手に階段を使って自由に昇れそうであった。私は決心して懐中電灯の光を頼りに高い螺旋状の階段を一歩一歩登り始めた。高さは150m位?意外と高い。途中で幾度も休みながら昇って行った。風の音が強くなった。下ではわからなかったが、灯台は貿易風で不気味に揺れている。このとき、少年の頃読んだ黒岩涙香の怪奇小説で、全く同じ場面があったことを思い出した。クリスティ原作の「幽霊塔」である。
 やがて頂上に近い機械室にたどり着いた。小さな窓から私は見た!! アメデ灯台の上に輝く世紀のハレー彗星を!南方のシンボル、南十字星の輝くそばにハレー彗星を見る。それは今回の南への旅の最大の目的であった。それが南の名勝、アメデ灯台の上で実現したことは、なんといっても最大の喜びであった。
 こうして、一生に一度しか会えぬハレー彗星を、最高の場面で見ることが出来たのである。

(写真は上の方に短い尾を引くハレー彗星。右下の方に有名な南十字が見える。
1986年4月の撮影)

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