天文学は大戦中と言えども、世界のどこかにセンターをもうけて情報を伝えていた。従って、新しい天体が発見されると、まずセンターに通報し、そしてセンターから国際天文学連合に加盟している国の天文台に国際電報で知らせた。日本では東京天文台(今の国立天文台)が中心になって、もし外国から何かの発見電報が来ると、国内の主な研究機関に転電していた。

 しかし大戦下の外国で発見したような場合、正当な通信の方法が無かった。本来なら本田上等兵の発見した彗星は、兵隊たちの話題になるだけで日本やアメリカなんかにも届かなかったはずである。
 本田上等兵は翌日、上官の前に立った。不動の姿勢をとって挙手の敬礼をした。そして、声を振わせながら、「班長殿、実は昨夜彗星を発見したであります」と報告した。(この戦場で人が戦っている中、おまえは一体なにを考えているのだ!)と、一括されると思いしや、上官は以外にもにこやかな表情で、「本田君、知っていたよ、君の天体観測の事は。私も気象台の出身だ、発見は直ちに通報しなくてはいかん。天文学には国境はない」  
 こうした班長の寛大な措置によって、なんと日本軍の勝報ならぬ天文の発見報が故国に打電されたのである。電報はまず従軍記者によって内地の新聞社に報知された。そして日本の天文のセンターである東京天文台にも知らされた。この時の記事は私も見た。読売新聞の朝刊で、「戦地でも科学する日本兵」という大きな見出しで、本田さんの発見を伝えていた。そしてその記事を見て夫の無事を知り喜ぶ慧(さとる)婦人の姿もあった。こうして本田さんの熱心さは期せずして、自分の健在を家族に報せる結果にもつながったのである。

 この南十字星の下での本田さんの発見劇は、シンガポールでも大きな話題になった。意外にも敵兵の捕虜の中から、トーマスと言うアリゾナ州出身の兵士が名乗り出た。通訳を介して、本田さんに発見の(おめでとう)を伝えた。そして自分もコメットハンターであり、1941年の”フレンド.リース.本田彗星”の時の独立発見者であったことを語ったという。つまり本田さんが出征直前の1941年1月に発見した彗星のライバルでもあった。戦争で発見者同士が偶然邂逅し、お互いに称えあうという、美しいエピソードであった。
 さてこうして本田さんが南十字星の下で発見した彗星は、のち「グリグシエレルプ彗星」という短周期彗星であることが判明したが、特殊な状況下で発見した本田さんの偉業は、美しい物語として永遠に語り継がれることになったのである。

(写真はパリの上空に現れたドナチ彗星。C/1858 L1)

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