1965年10月21日。その日は全国的な秋晴れの好天に恵まれていた。雲一つない九天に太陽は煌々として輝き、問題の「池谷・関彗星」は時事刻々として、太陽に迫りつつあった。その1日前のハワイからの報告では、彗星は太陽のそばで分裂し無数のかけらとなって散らばったことが報道された。AP共同のニュースであったが明らかにオーバーな報道であった。
太陽に大接近するこの日の朝、問題の池幸一氏が私の家に来た。そして、屋上の”物干し天文台”に大きな暗室を組み立て始めた。口径12.5cmの屈折望遠鏡をまるで戦車の大砲のように、中から突き出した。太陽を直接望遠鏡で見ることは大変危険なので投影法に頼ることにした。太陽の像を焦点面に置いた白い画用紙に写す。そして安全な投影法で、太陽に突入して来る彗星をキャッチしようというものであった。
しかし太陽像はまぶしいので、太陽の部分を円形にくりぬいて、周辺のコロナの部分のみが映るようにした。見事な考案であった。日食でなくとも太陽の明るい内部コロナは見事に影を落としたのである。
正午過ぎだった。暗室の中でじっと投影像を見つめていた記者のひとりが「アッ!妙なものが映った。これはなんだ!」と頓狂な声を挙げた。それはまるで太陽面に巻きついた大蛇のような白い長い物体であった。「彗星だ! 見えたぞー!」と池氏が叫んだ。それは、まさに太陽面に30万キロと迫り大変な高熱を受けながら懸命に運行している「池谷・関彗星」の姿であった。
記者たちが興奮して大騒ぎしているとき、突然暗室の外で「ドドーッ」という物凄い音が響いた。(地震か!?)外に出て見ると、隣の倉の屋根に上がってテレビカメラを回していた記者の一人が、”落とし穴”のように瓦が破れて中に落ちたと言う。老朽化した家の屋根は人間の重みに耐えられなかったのだ。この事故で観測どころではなくなった。観測は30分ほど中断されたが、その間、奇妙な彗星の姿は消えていた。彗星は既に太陽の背面にまわったのだ。
「あれはたしかに彗星だった」。幸い、池氏が”自慢の投影ボックス”の中で撮影したカメラに、その奇妙な彗星の痕跡が写っていた。
翌10月22日。報道関係者を含めて我々の観測隊は、須崎市のバンダの森(標高800m)に登って、日の出と共に現れた健在な彗星の姿を確認した。尾は白昼の空に高く靡いていた。「イケヤ・セキ彗星は生きていた」のニュースは、世界に報道された。
(写真は太陽コロナの中を泳ぐ”池谷・関彗星”。10月21日正午ごろ。TV画面から撮影)


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太陽に大接近するこの日の朝、問題の池幸一氏が私の家に来た。そして、屋上の”物干し天文台”に大きな暗室を組み立て始めた。口径12.5cmの屈折望遠鏡をまるで戦車の大砲のように、中から突き出した。太陽を直接望遠鏡で見ることは大変危険なので投影法に頼ることにした。太陽の像を焦点面に置いた白い画用紙に写す。そして安全な投影法で、太陽に突入して来る彗星をキャッチしようというものであった。
しかし太陽像はまぶしいので、太陽の部分を円形にくりぬいて、周辺のコロナの部分のみが映るようにした。見事な考案であった。日食でなくとも太陽の明るい内部コロナは見事に影を落としたのである。
正午過ぎだった。暗室の中でじっと投影像を見つめていた記者のひとりが「アッ!妙なものが映った。これはなんだ!」と頓狂な声を挙げた。それはまるで太陽面に巻きついた大蛇のような白い長い物体であった。「彗星だ! 見えたぞー!」と池氏が叫んだ。それは、まさに太陽面に30万キロと迫り大変な高熱を受けながら懸命に運行している「池谷・関彗星」の姿であった。
記者たちが興奮して大騒ぎしているとき、突然暗室の外で「ドドーッ」という物凄い音が響いた。(地震か!?)外に出て見ると、隣の倉の屋根に上がってテレビカメラを回していた記者の一人が、”落とし穴”のように瓦が破れて中に落ちたと言う。老朽化した家の屋根は人間の重みに耐えられなかったのだ。この事故で観測どころではなくなった。観測は30分ほど中断されたが、その間、奇妙な彗星の姿は消えていた。彗星は既に太陽の背面にまわったのだ。
「あれはたしかに彗星だった」。幸い、池氏が”自慢の投影ボックス”の中で撮影したカメラに、その奇妙な彗星の痕跡が写っていた。
翌10月22日。報道関係者を含めて我々の観測隊は、須崎市のバンダの森(標高800m)に登って、日の出と共に現れた健在な彗星の姿を確認した。尾は白昼の空に高く靡いていた。「イケヤ・セキ彗星は生きていた」のニュースは、世界に報道された。
(写真は太陽コロナの中を泳ぐ”池谷・関彗星”。10月21日正午ごろ。TV画面から撮影)

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