1961年10月中旬、私の人生は変わった。それまでの苦難や焦燥は無く、落ち着いた人生を送ることになった。それは、かねてからの念願だった彗星発見という10余年来の目標に到達することが出来たからであった。
”新しい彗星を発見したい”という事は少年時代からの夢であった。その目的に向かって、ただひたすら邁進したが、なかなか到達できなかった。30歳が近くなる頃には発見の技術的なことは、すべてマスターしていた。星団、星雲らの様子にも慣れていた。後はチャンスを待つだけであった。しかし、そのチャンスはなかなか到来せずに敗北した。
敗北した人生の中でも、星は見続けた。自分では、もう駄目だ、という心境の中で、星は追い続けた。そしてチャンスの到来。焦りのないすがすがしい心の中に新星が宿ったのである。発見した場所も前のクロムメリン彗星と同じ獅子座だった。普段見えないはずの場所に忽然として朦朧と輝く天体が出現した。
格別の喜びも感動もなかった。後は黙々として、報告に必要な作業を進めていった。そして深夜、東京天文台に打電した。夜が明けて桂浜の海に出た。小学生の頃、岡本先生と見た海だった。遠い海原に一隻の汽船が浮かんでいた。水平線が球形に見えた。雄大な景観だった。この時突然、発見者になったんだ!という、大きな感動が襲ってきた。私は長い渚をただ歩いた。
発見の電報は長くお世話になっていた東亜天文学会の山本一清先生にも打った。山本先生は私の発見に期待していたが、2年前に逝去されていた。私はそれでも敢えて「ヤマモト イセイ」とあて名を書いた。ご生前中にどうしても報告したかったのだ。後日、英子夫人から「電報を山本の霊前に奉りよろこびをわかちあいました」という、涙の文面に接した。
写真は発見した当日コメットシーカーのそばに立った姿。こころは不安で乱れていた。(この空に世界中でまだ誰も知らない天体が輝いているのだ)、と思うと私は異様な雰囲気と期待に包まれていた。東京天文台から、この日は確認の電報は無かった。茫然としてただ夢のような1日をすごした。
(全自作のコメットシーカーのそばに立って。口径87mm、F7。ケルナ−40mm視野2.5度、対物レンズは手磨き)


にほんブログ村
”新しい彗星を発見したい”という事は少年時代からの夢であった。その目的に向かって、ただひたすら邁進したが、なかなか到達できなかった。30歳が近くなる頃には発見の技術的なことは、すべてマスターしていた。星団、星雲らの様子にも慣れていた。後はチャンスを待つだけであった。しかし、そのチャンスはなかなか到来せずに敗北した。
敗北した人生の中でも、星は見続けた。自分では、もう駄目だ、という心境の中で、星は追い続けた。そしてチャンスの到来。焦りのないすがすがしい心の中に新星が宿ったのである。発見した場所も前のクロムメリン彗星と同じ獅子座だった。普段見えないはずの場所に忽然として朦朧と輝く天体が出現した。
格別の喜びも感動もなかった。後は黙々として、報告に必要な作業を進めていった。そして深夜、東京天文台に打電した。夜が明けて桂浜の海に出た。小学生の頃、岡本先生と見た海だった。遠い海原に一隻の汽船が浮かんでいた。水平線が球形に見えた。雄大な景観だった。この時突然、発見者になったんだ!という、大きな感動が襲ってきた。私は長い渚をただ歩いた。
発見の電報は長くお世話になっていた東亜天文学会の山本一清先生にも打った。山本先生は私の発見に期待していたが、2年前に逝去されていた。私はそれでも敢えて「ヤマモト イセイ」とあて名を書いた。ご生前中にどうしても報告したかったのだ。後日、英子夫人から「電報を山本の霊前に奉りよろこびをわかちあいました」という、涙の文面に接した。
写真は発見した当日コメットシーカーのそばに立った姿。こころは不安で乱れていた。(この空に世界中でまだ誰も知らない天体が輝いているのだ)、と思うと私は異様な雰囲気と期待に包まれていた。東京天文台から、この日は確認の電報は無かった。茫然としてただ夢のような1日をすごした。
(全自作のコメットシーカーのそばに立って。口径87mm、F7。ケルナ−40mm視野2.5度、対物レンズは手磨き)

にほんブログ村
コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。