1954年8月29日、滋賀県の山本天文台で開催された第1回の”国内彗星会議”(委員会)で、近く回帰するはずの”クロムメリン彗星”が話題になった。恐らくクロムメリン氏の所属していた大英天文協会から発見のための詳しい予報が出るだろうという事になった。彗星会議の発起人の山本一清博士は、1928年に山埼氏が発見し、未確認のまま南下して行った新彗星を追いかけて、台湾の「台北天文台」まで出張して観測したという。如何に当時、山崎氏の彗星発見が重大視されていたかがわかる。出身地の「土陽新聞」(高知新聞の前身)は、”誇りあること”という大きな見出しで、山崎氏の発見を報じた。しかし当時は小学校のみしか行かなかった大人が多く、近所で新聞を取っている家は少なかったという。天文学者としての山崎氏の存在は、高知県ではほとんど知られなかった、という。1950年頃、山崎さんのお宅を佐川町まで探しに行ったとき、近所でさえも分からなくて苦労した。
佐川町九反田のお宅では、彗星会議でクロムメリン彗星が話題になっていることを報告した。そして独自に我々で28年の周期を持ち、1956年頃回帰するはずの同彗星の位置予報を計算してみようではないか、という事になった。山崎氏はアメリカでバーナード博士とも度々会って、彗星の軌道には精通していた。私も軌道計算には興味があって、毎週山崎氏のお宅を訪ねて摂動計算に協力したのである。
問題は1928年から28年間の摂動計算であるが、まず惑星表を取り寄せた。そして木星と土星だけの略式摂動計算で1ヶ月ごとの数値を計算していった。これは一種の積分計算であるから、日を細かく詰めた方が正確に決まっているが、なにしろ長い28年間の計算で、しかも対数表とソロバンによる手計算。結果は遅々として進まなかったが、それでも彗星の接近してきた1956年の夏には、何とか接近の様子が見えてきた。
「関君、わしが1928年に発見した時と同じようなコースを通るんじゃ!」と叫んで私をおどろかせた。今回の回帰が、周期が28.0年と、ほとんど変わらなかったことと、木星や土星の顕著な摂動を受けていないことがその理由であった。しかし、そのころ大英天文協会で発表され、山本速報に転載されたカニンガム氏の位置予報は、今回の近日点の近くで、我々の計算した予報から10度近くも南にずれていた。どちらかに大きなミステイクがある。
そうこうするうちに彗星はどんどん近日点に近づいてきて、その足音が高らかと天に木霊している景だった。
(どちらのコースを信じたらよいのだ?)
そして、遂に運命の1956年10月6日の朝を迎えたのである。
(写真は水沢の天文台を引退後、佐川町の自宅で観測する山崎正光翁)


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佐川町九反田のお宅では、彗星会議でクロムメリン彗星が話題になっていることを報告した。そして独自に我々で28年の周期を持ち、1956年頃回帰するはずの同彗星の位置予報を計算してみようではないか、という事になった。山崎氏はアメリカでバーナード博士とも度々会って、彗星の軌道には精通していた。私も軌道計算には興味があって、毎週山崎氏のお宅を訪ねて摂動計算に協力したのである。
問題は1928年から28年間の摂動計算であるが、まず惑星表を取り寄せた。そして木星と土星だけの略式摂動計算で1ヶ月ごとの数値を計算していった。これは一種の積分計算であるから、日を細かく詰めた方が正確に決まっているが、なにしろ長い28年間の計算で、しかも対数表とソロバンによる手計算。結果は遅々として進まなかったが、それでも彗星の接近してきた1956年の夏には、何とか接近の様子が見えてきた。
「関君、わしが1928年に発見した時と同じようなコースを通るんじゃ!」と叫んで私をおどろかせた。今回の回帰が、周期が28.0年と、ほとんど変わらなかったことと、木星や土星の顕著な摂動を受けていないことがその理由であった。しかし、そのころ大英天文協会で発表され、山本速報に転載されたカニンガム氏の位置予報は、今回の近日点の近くで、我々の計算した予報から10度近くも南にずれていた。どちらかに大きなミステイクがある。
そうこうするうちに彗星はどんどん近日点に近づいてきて、その足音が高らかと天に木霊している景だった。
(どちらのコースを信じたらよいのだ?)
そして、遂に運命の1956年10月6日の朝を迎えたのである。
(写真は水沢の天文台を引退後、佐川町の自宅で観測する山崎正光翁)


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