1954年の8月の終わりだった。京都大学を退職してOAAを設立していた山本一清博士は、全国の彗星に関する学者や学究に呼び掛けて、戦後初の「彗星会議」なるものを開催した。
 会議は委員会の形をとり、山本博士が自ら参加者を決めて招待状を出した。その中に若干23歳の、まだ駆け出しの頃の私が選ばれたのは奇跡であった。思えば、終戦直後の本田実氏の彗星発見に大いなる刺激を受け、そして彗星の発見者になりたいと意気込んでいた私のところに、彗星会議の案内が来た。それは大きなチャンスの到来だった。神が決断したのだ。

 彗星会議は滋賀県草津市外の山本天文台で開催されたが、参加者は殆んど知らない人ばかりであった。大学者もいれば、若い学究もいた。しかしこの会議に参加して、多くの同好者と知り合いになれたことが、どんなにプラスになったことか。私の彗星研究はここから本格的に始まり、彗星発見への大きな第一歩を踏み出したのである。
 軌道計算では1928年に山埼氏が発見し28年後の1956年に回帰するはずの”クロムメリン彗星”や、1909年以来45年間、杳として行方をくらましている短周期彗星「18D/ペライン」の計算が話題になった。この二つの彗星は、その直後、大きな動きがあって、私もその渦の中に巻き込まれようとは、夢想だにしないことであった。

 1954年の彗星会議は実に私の運命の登竜門となった。今年2021年、高知市で開催されるはずの「第50回彗星会議」は、またどんなドラマを展開するであろう?

(写真は1954年8月29日の会議に参加した人々。46cm反射望遠鏡のそばに立つ山本博士の周囲に古川氏、小槇氏、本田氏、松井氏らの顔が見える。参加者は約30人。あれから67年。参加者で現存するのは私だけとなった。関撮影)


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