前回は謎の”黄道光”について述べたが、今回はさらに奇怪な「対日照」の話である。高知市の時代には、秋の朝方の黄道光は何とか見えたが、夜半に見える対日照にはまったく気がつかなかった。
1970年頃、高知市の私の観測所が安芸郡芸西村に移転してから偶然発見した。当初は口径22cmの反射望遠鏡で、主に彗星の写真撮影をやっていたが、ある晩、天頂付近が異常に明るいことに気が付いた。ちょうど太陽と180度の正反対に当たる天空で、この光で写真がカブルのではないかと心配するほどの明るさであった。
光芒の大きさは直径20〜30度の円形である。35mmの標準レンズで写真を撮ってみた。おうし座あたりの天空であるが、何とか映し止めた。今まで写真でも見たことのない謎の光芒である。これは明るいレンズの周辺減光ではない。かなり広い範囲がボーッと輝いていることが分かる。
この対日照は四季を問わず、お天気の良い日はいつでも見られた。しかし、今は日本国中、夜空が明るくなって、見られる場所が限定されてきた。その後、大豊町の梶ヶ森(1400m)に、60cmを有する天文台が出来て登った時、夕方から早くも東の低空に明るすぎるほどの対日照をみた。今でも山奥に行けばこの謎の光も立派に見えるらしい。
さて、それでは、この不思議な光芒の正体はなにか?というところであるが。おそらく太陽系の中の無数の小惑星体が輝いているのだと思う。太陽を背にした真夜中の衝の位置で一番よく輝くようである。小惑星で肉眼で見えるものは一つもないが、無数に集合すると、全体の光が奇怪な光芒となって見えるものであろう。
戦前に広島県に「黄道光観測所」という施設があった。全体にナゾの存在であったが所長は山本一清博士で、台員はかの本田実氏であったという。そのころには、黄道光が地球の大気圏内の現象なのか、遠い宇宙の現象なのかわかっていなかった。そこで豪州と日本の2ヶ所で同時に観測して、そのパララックス(視差)を確かめようとしたという。これは、明らかに大気圏外の現象で、視差は確認できなかった。山本博士が、戦後になって発行した「星と空」という随筆に出ていたが、彗星ではなく黄道光観測者としての本田氏の活躍も描かれていて、面白かった。


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1970年頃、高知市の私の観測所が安芸郡芸西村に移転してから偶然発見した。当初は口径22cmの反射望遠鏡で、主に彗星の写真撮影をやっていたが、ある晩、天頂付近が異常に明るいことに気が付いた。ちょうど太陽と180度の正反対に当たる天空で、この光で写真がカブルのではないかと心配するほどの明るさであった。
光芒の大きさは直径20〜30度の円形である。35mmの標準レンズで写真を撮ってみた。おうし座あたりの天空であるが、何とか映し止めた。今まで写真でも見たことのない謎の光芒である。これは明るいレンズの周辺減光ではない。かなり広い範囲がボーッと輝いていることが分かる。
この対日照は四季を問わず、お天気の良い日はいつでも見られた。しかし、今は日本国中、夜空が明るくなって、見られる場所が限定されてきた。その後、大豊町の梶ヶ森(1400m)に、60cmを有する天文台が出来て登った時、夕方から早くも東の低空に明るすぎるほどの対日照をみた。今でも山奥に行けばこの謎の光も立派に見えるらしい。
さて、それでは、この不思議な光芒の正体はなにか?というところであるが。おそらく太陽系の中の無数の小惑星体が輝いているのだと思う。太陽を背にした真夜中の衝の位置で一番よく輝くようである。小惑星で肉眼で見えるものは一つもないが、無数に集合すると、全体の光が奇怪な光芒となって見えるものであろう。
戦前に広島県に「黄道光観測所」という施設があった。全体にナゾの存在であったが所長は山本一清博士で、台員はかの本田実氏であったという。そのころには、黄道光が地球の大気圏内の現象なのか、遠い宇宙の現象なのかわかっていなかった。そこで豪州と日本の2ヶ所で同時に観測して、そのパララックス(視差)を確かめようとしたという。これは、明らかに大気圏外の現象で、視差は確認できなかった。山本博士が、戦後になって発行した「星と空」という随筆に出ていたが、彗星ではなく黄道光観測者としての本田氏の活躍も描かれていて、面白かった。


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