山本一清博士の主催する「彗星会議」は、その第二回目を高槻市真上880番地の古川麒一郎氏の宅で開催された。第1回目が1954年8月に開いているが、2回目は同年の11月に開催が決まった。これには過去45年ほども行方不明になっている18D/Perrine(ペライン彗星)の再発見への山本博士のこだわりがあった。6年余りの周期で公転しているので、過去何回も再発見のチャンスがあったのだが1915年頃の回帰の時、大英天文協会が摂動のない誤った位置予報を出し、かつ山本博士の配下の中村要氏が、その予報位置に「発見した!」との誤報を発表したので、世界の観測者がそれに惑わされた。そんなことで永いこと行方不明になったのも自分らの責任と考えていた。

 1954年の晩秋に召集されたメンバーは、第一回の時の約半分であったが、本当に熱心な計算者が集合した。本会議が終わってから、レコードの観賞会になった。実は、この2回目の会議を開催した京都大学院生の古川氏や神戸の長谷川氏、花山天文台の松井氏らは、大の音楽好きであった。会議の後半は「名曲観賞会」になっていた。そんなこともあって、私はこの会場に到着するときに、お土産として近所のレコード店で一枚のLP盤を買っていた。後の観賞会で、それが真っ先に演奏されたが、曲目はシューベルトの「即興曲」嬰ハ短調であった。その次は古川氏の希望でラベル作曲の「ボレロ」だった。長谷川氏はいつも、モーツァルト、オンリー。

 音楽会が終わると長谷川氏が言った。シューベルトの即興曲を聴いていて、ふと”ペライン彗星”のイメージが浮かんだという。それは「とんでもないところを彷徨しているのではないか?」と言う。幸い行方不明になってから、1950年までの41年間の木星と土星による摂動を、東京天文台の広瀬秀雄博士が計算している。後はそれに5年間の摂動計算を追加すればいい。長谷川氏は「1週間でやってみせるよ。」と、豪語した。果たしてシューベルトの「即興曲」は、縁もゆかりもないこの彗星の発見に貢献したであろうか?
 
 長谷川氏は自分で計算した予報によって、アメリカの彗星発見の神様、E.リーマー女史によって再発見されることを夢見ていた。実際、毎年帰ってくる周期彗星の検出は、すべてが彼女であった。長谷川氏の予報はIAUCによって世界中に発表された。
 ところがそれから間もなく、とんでもない横槍が飛び込んできたのである。


(第二回彗星会議の席上で、シューベルトの音楽を聴く長谷川一郎氏「右」と筆者)

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