1947年から1959年までの12年間に10個の新彗星を発見したアントン.ムルコスの活躍は忘れられない。彼は旧チェコ スロヴァキアのスカルナテ・プレソ天文台にあってタトラ山脈の中、海抜1,400mの高地で活躍した。プロの天文家であるが、この天文台ではベクバル台長自らもコメットハンターとして発見し、台員ではムルコスの他にもパジュサコバ女史や、クレサク博士らも多くの彗星を発見している。

 私が彗星の捜索を始めた最初の10年間は、彼らの大活躍に押されて、全く出る幕が無かった。日本ではこの時期、ほとんど成果が挙がらなかったのは、こうした強力なライバルが存在したからである。ムルコスは標高1,400mの天文台より更に高い海抜2,000m級の気象観測所に上がって観測したというから、彼の見た星空は想像をはるかに絶するものがあったに違いない。私も、2000年頃、マウナケアの標高4,200mの山上で、星空を仰ぎ、その物凄さに腰を抜かしたことがある。しかし冬は氷点下数十度の寒さ。観測は常に電熱服を着ての不便な作業であったと思われる。

 彼らの成果を支えた影に、特別に製作されたコメットシーカーがあった。それはソメト製の口径10cm25xの双眼望遠鏡であったが、資料によると実視野は4度もあったという。何しろ当時としては”鉄のカーテン”の中での出来事で、詳細は良く分からなかったが、彼らのライバルたる本田実氏あてに来た手紙でわかった。本田氏は「海抜2,000mの星空と広角の新兵器、彼らの成果も当然の事でしょう」と語っていた。

 日本の捜索者が双眼望遠鏡にあこがれ始めたのは、そのころからであった。まず本田実氏が、観光用の興和製の小さな双眼望遠鏡を使用して初めて倉敷で発見に成功した。その後、国内ではニコンの捕鯨用や、フジノンの性能の良い大型の双眼望遠鏡が発売されて、日本でもそれらを使用するコメット ハンターが多くなった。私も1967年からニコンの12cm,20Xの双眼鏡を使用するようになった。この機械は、方位角と高度が測定できる目盛環を備えていたので、これを使って発見した彗星の赤経・赤緯が簡単にわかった。これは彗星捜索の大きな革命である。実際に普通の経緯台で観測していると、発見した新しい天体の位置(赤経・赤緯)を知るのが如何に難しい事か分かるのである。

(写真は、イギリスのコメットハンター、オルコックが使用した双眼望遠鏡で、ムル
コスも、これに似たスタイルの双眼機を使用していたと思われる。)

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