話をもう一度、失踪したペライン彗星に戻そう。第二回目の「彗星会議」で、それを追跡すべき軌道の計算を続ける、と豪語した長谷川氏はそれから10日間、計算に没頭して遂に軌道が完成した。1950年から55年までの木星による摂動作用を加えた軌道が出来上がった。早速、それによる位置予報が計算されて、山本一清博士が、コペンハーゲンの中央局に知らせた。同時にアメリカのハーバード大学にも報告した。
 ところがこの彗星は悪運のつきもので、約40年前には大英天文協会の誤った予報から、京都大学の中村要氏が苦汁をなめた。そして今回は長谷川氏の計算の過程で、とんでもないミスが生じて、その誤った予報が世界中を回ってしまったのである。またも同じような大失敗が繰り返されようとしていた。当時はパソコンはまだなく、対数表やソロバンを使った手計算だったので、ポカミスが多かった。

 しかし、予報とは関係なしに新彗星の現れそうな暁の天空を捜索している二人の人物がいた。一人は有名なスカルナテ・プレソ天文台のムルコスであり、もう一人が日本の私だった。私は1955年9月の中旬、口径15cmの反射望遠鏡を操って、明け方の「かに座」付近を捜索していた。そこには半世紀も消息を絶った「ペライン彗星」が、密かに輝いていようとは、知らないで。しかし(何かある?)、そんな気がしながら、ああ私の視野はその場所をいとも簡単に看過してしまったのである。

 一方ムルコスの視界は、その二日後に同じ場所を通過した。
彼の鋭眼は、数個の微光星に埋もれるようにして輝く、かすかな光芒を見たのであった。光度は9等。予報は14等であったから、彗星は実に100倍も爆発的に増光していたのである。正に奇跡の発見であるが、考え方によれば、私が見た後の二日間に、彗星は大増光して、発見されたとも考えられる。ここでわかった!ペライン彗星は平常は輝かない。しかし数十年に一度?の物理的な変化(爆発)によって、その年だけ発見されるのではないか?その原因は太陽活動にあるかもしれない。

 翌日スカルナテ プレソ天文台から世界の中央局であるコペンハーゲン天文台に一通の国際電報が打たれた。「A.ムルコス、9トウキュウノシンスイセイヲハッケンせり、カクサンジョウニシテ オハナシ」という内容であった。天文電報は世界を回った。そして日本にも来た。山本博士からの連絡でこの電文を見た長谷川氏は一瞬ハッとした。計算のミスに気が付いていた彼は急いで改算したばかりであった。その新しく計算した彗星の位置は正にペラインの位置そのものだった。世界ではまだ、新彗星がペライン彗星と気がついていないようであった。
 記録によると山本博士が、「ムルコス スイセイハ ペラインスイセイナリ」との電報をセンターには発信したことになっている。すべてが、後手に回った失敗の巻であった。しかしOAAの山本博士は、長谷川氏の努力を汲んで、東亜天文学会の名のもとに”努力賞”を贈った。

 それから20年ほど経って国際天文学連合の総会がチェコの首都プラハであった。会に参加した長谷川氏は後で、雪山のスカルナテ プレソ天文台を尋ねた。玄関を入ったところに、この天文台の活躍を象徴する広角双眼望遠鏡が立ててあった。遂に姿を現した”秘密兵器”だった。そばにモデルのように若い女性がサンダルを履いた夏の軽装で立って説明していた。その優しい姿から、これが氷点下数十度の過酷な環境の下で、多くの彗星発見に活躍してきたものとは、到底イメージがわかなかったという。

(写真はタトラ山脈の中腹に立つ スカルナテ・プレソ天文台)

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