私は季節では早春と晩秋が好きだった。どうしてかわからないが、移りゆく風景が何とも言えず美しい。今は桃の節句の時期で、街を歩いていて早速満開の桃の木を見つけた。戦時中は剣道部に所属していて、よくこの場所に出かけた。ここは「武徳」という道場があった場所で、剣道や薙刀での試合があった。私は中学も低学年であったために、先輩たちの試合の見学や応援に参加することが多かった。
私たちの旧制の中学には、巡査上がりの剣道の先生がいた。剣術は5段である。そこに軍事教練を指導する目的で青野という配属将校がやってきた。パンとした軍人で、規律の正しい人柄が注目を集めた。いつも指揮刀をつるしていたが剣道は4段と言う事だった。青野教官の存在は我々の大いなる誇りとするところだった。
ある時、武徳で青野4段と大久保5段が試合をすることになった。道場は黒山の人だかりとなった。大久保5段が強いのか、あるいは青野4段が勝つのか、その噂は絶えなかった。両人ともに面を打つのが得意だった。結果は3本中2本を大久保5段が取った。私も中2の時、このお二人から指南を受けたが、すぐに終戦になって結局剣道は実らなかった。
大久保5段は終戦後も、高知県の剣術の発展のために貢献した。一方青野教官の方であるが、太平洋戦も終戦が近くなった昭和19年、沖縄の戦線に派遣された。そして最後は”切り込み隊長”として壮烈な戦死を遂げた、と言う説がある。剣豪らしい最期であった。
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私たちの旧制の中学には、巡査上がりの剣道の先生がいた。剣術は5段である。そこに軍事教練を指導する目的で青野という配属将校がやってきた。パンとした軍人で、規律の正しい人柄が注目を集めた。いつも指揮刀をつるしていたが剣道は4段と言う事だった。青野教官の存在は我々の大いなる誇りとするところだった。
ある時、武徳で青野4段と大久保5段が試合をすることになった。道場は黒山の人だかりとなった。大久保5段が強いのか、あるいは青野4段が勝つのか、その噂は絶えなかった。両人ともに面を打つのが得意だった。結果は3本中2本を大久保5段が取った。私も中2の時、このお二人から指南を受けたが、すぐに終戦になって結局剣道は実らなかった。
大久保5段は終戦後も、高知県の剣術の発展のために貢献した。一方青野教官の方であるが、太平洋戦も終戦が近くなった昭和19年、沖縄の戦線に派遣された。そして最後は”切り込み隊長”として壮烈な戦死を遂げた、と言う説がある。剣豪らしい最期であった。
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