大成功をおさめた大阪でのセゴビアのギター演奏会は、その二日後に神戸の国際ホールで再び開催された。私は3階の後ろの方で聞いていたが、小さく見えるステージのセゴビアから、時々躍動するような音が響いてきた。音質がいいので、かすかなピアニシモの音声も会場の水を打ったような静寂な空気の中を伝わってきた。
 この日はアルベニスやポンセのような近代ものが多かったが、「グラナダ」では噴水の上がる街の中心街を、行きかう馬車の足音が聞こえてきた。また「セビリア」では、遠くインディアンの打ち鳴らす太鼓の音まで響いてきた。(タンボーラ奏法)寺院の鐘の音を思わすハーモニクス奏法。水の底で唸るような魔法のピチカート奏法。ギターの表現はまことに多彩で、かってベートーベンが言った「ギターは小さなオーケストラである」の言葉を余すことなく実証した演奏会であった。

 この日も大聴衆であったが、会場の設備がいいので、階段を歩く人の足音は殆んど聞こえなかった。近くに和服のご婦人がいるのか、かすかな衣擦れの音と、優しい香水の香が漂っていた。すぐ後ろに中年の婦人がいるようであった。なつかしい沈丁花の香りであった。セゴビアのギター演奏を聞きながら、思いは遠い昔に飛んでいた。

 もう随分と昔になる。高知市の上町でギター教室を始めたばかりのころ、一人の若い婦人が訪ねてきた。大学でマンドリン部に所属していたが、ギターを本格的に学びたい、と言う。こうしてギターのレッスンが始まったが、勘取りのいい彼女は、アッと言う間に教則本を完了した。後は何よりも好きだというバッハの曲に専念した。練習を始めて3年余にしてバッハの名曲「シャコンヌ」を弾き始めたから驚きである。主題の重厚な和音に続く30余のバリエーションであるが、16分音符の早いスケールになかなかついていけない。夏は汗にまみれて練習する彼女から、いつも沈丁花の上品な香水の香りが漂っていた。
 時々私の横顔を見つめる彼女の黒い瞳には、何か私への思慕があるような気がした。
 それは恋と言うにはあまりにも冷静であったが、門下生の中でも忘れられぬ存在であった。

IMG_2455


にほんブログ村 科学ブログ 天文学・天体観測・宇宙科学へ
にほんブログ村