1954年8月に本邦最初の「彗星会議」が開かれて、わずか3か月後の11月中旬に第二回目の会議が開催されることになった。場所は、高槻市の古川麒一郎氏のお宅であった。
 山本博士は緊急の話し合いがある、という前触れであった。その一つはある財閥の寄付よって、口径100cmの「彗星天文台」を民間の手で建設する、という壮大なものであった。マスコミも取材に訪れていて、新聞等に大々的に報じられたが、これは実現しなかった。
 もう一つの重要な議題というのが、半世紀近くも杳として消息を絶っている「ペライン彗星」を探索するというものであった。博士の概略計算によると、翌1955年秋に近日点に帰ってくるという。周期は6.5年であるが、1909年以来46年間も消息を絶っているので精密な軌道計算が必要であるという。

 1915年頃、京都大学の中村要助手は、当時大英天文協会の発表した位置予報を信じて、
捜索し「その予報線上に再発見した」と発表した。追跡観測は何日も続けられたが、後で、その予報は摂動のはいっていない偽物で、本物の位置は180度も外れていることが判明した。何で偽物の虚像が何日も追跡観測されたのだろう?山本博士は、ペライン彗星が行方不明になったのも、大英天文協会と日本の観測者の責任と考えて、以後、汚名挽回と、この彗星の再発見に執念を燃やしていたのであった。
 ところがここにペライン彗星の軌道計算を独りコツコツと計算している学者がいた。のち東京天文台長となる、広瀬秀雄博士で、1909年以来の長い摂動計算を毎日やって、遂に1950年までを完成させたのである。
 これに眼を付けた長谷川一郎氏は、それから後、わずか5年間の摂動計算を計算し、彗星会議の終了後、結果を発表したのである。それでも10日間かかった。彗星の位置予報は、発見される確率の高い、重要な近日点通過前後を長谷川氏が計算し、遠い面倒な長い位置を私に任せられた。多少姑息に見えるが、長谷川氏とはそのような人であった。しかしこれが裏目に出た。大半の摂動を計算した、功労者の広瀬博士も長谷川氏が勝手に計算を延長したことは後まで知らなかった。
 しかし長谷川氏の計算した位置予報には大きなミステイクがあった。それに私が気が付いた時には、誤った予報は「山本速報」によって、すでに世界に発信された後だったのである。光度は最大で14等。(これは大変なことになった!)私からの指摘によって、予報は改算された。
 しかしそのころ北欧チェコスロヴァキアの、タトラ山中にあるスカルナテ・プレソ天文台(海抜1400m)からの天文電報は、驚くべき事実を伝えていた。

(写真は1954年11月、第二回彗星会議の日、高槻市での長谷川一郎氏「右」と筆者)

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