新鋭のチェコ スロヴァキアのムルコスと、古豪の日本の本田氏が、同時に発見した新彗星がある。ムルコス.本田彗星(C/1953 G1)で、発見は1953年の今頃(4月15日)である。本田氏が倉敷で発見して天体の移動を確認待ちしているとき、コペンハーゲンから、ムルコス彗星の発見を知らせる電報が来たもので、普通なら遅れると認められないものであるが、本田さんの過去の実績から、発見が認められた珍しい例である。
ほかにもC/1964 L1(Tomita -Gerber-Honda)の例がある。つまり東京天文台の富田氏が、発見からかなり後になって報告したもので、台長の広瀬博士の計らいで、特別に命名が実現した。また横須賀市の倉賀野氏は1957年7月下旬、富士山の8合目から、御来光を待っているとき、明け始めた東の地平線上に雲の様な天体を発見した。8月1日になって、ムルコス彗星発見の電報が日本にも来た。倉賀野氏の発見を重く見た神田茂氏は、コペンハーゲンのセンターに知らせた。しかしその返事は、「独立発見者が多いので、倉賀野氏の名前は付けられない」という事であった。この彗星はその後明るくなって、日本全国から3等星として肉眼で眺められた。倉賀野氏の地元では、これを「クラガノ彗星」と呼んで親しんだという。私の住む上町でも、夏の夕涼みの人たちが、西空に輝く彗星を見て「あれよあれよ」と騒いでいたことを記憶している。涼み台は途端に星の話でにぎわった。有名な「アラン.ロラン彗星」の出た直後の事であった。
さて、本田さんの発見したC/1955 O1は、完全な本田さんの独走であった。この時本田さんは初めて口径10cmの興和製の双眼望遠鏡を使用した。そして、観測室の円形の床がモーターで自動的に回転するという新しい基軸をとりいれた。人間が椅子に座ったまま回転し、楽に全天が観測できたのである。
本田氏の発見は朝方の、オリオン座の南で8等星。毎日少しずつ明るくなってくる様子から、近日点通過のころには、肉眼星になることも予想された。この本田彗星(C/1955 O1)の光度変化に着目したOAAの長谷川氏は、花山天文台の接近した3日間の光度変化から、実験式を作成し、その予報を発表した。それは驚くべき結果となった。
山本天文台からマスコミにも発表があったが、近日点を通過した8月の中旬には最大マイナス8等になるという、とてつもない結果だった。これは正に満月の明るさにも匹敵する光度である。世間は大騒ぎとなった。私の近所でも、一般の人が朝早く起きて見守った。しかし結果は予想に相反して、肉眼では到底困難な6等星であった。計算者はもちろん、天文界は大いに落胆した。
アメリカのカニンガム博士は、この予報を標準型の、彗星が太陽からの距離の4乗に逆比例するという無難な一般的な方式を取って、見事的中した。悪い言い方をすれば、ベテランと新進との差がこのような結果として出てしまったのである。
この年1955年の8月に、折よく第三回目の「彗星会議」が京都市の花山天文台で開催され、本田彗星の光度の問題が討議された。長谷川一郎氏から、「あまりにも短い期間からの長期の予報が失敗した」との説明があった。
本田氏は今回の発見が、彗星会議から表彰された。彗星発見といえば本田さん。本田さんが発見してあたりまえということで、世間には、発見は本田さんでなくては出来ないこと、という見方が強かったのである。ところが、それから6年後の1961年になって、本田さんでないとできない、という”神話”を覆す男が現れたのである。
(1954年の本田実氏と1955年に発見した本田彗星)


にほんブログ村
ほかにもC/1964 L1(Tomita -Gerber-Honda)の例がある。つまり東京天文台の富田氏が、発見からかなり後になって報告したもので、台長の広瀬博士の計らいで、特別に命名が実現した。また横須賀市の倉賀野氏は1957年7月下旬、富士山の8合目から、御来光を待っているとき、明け始めた東の地平線上に雲の様な天体を発見した。8月1日になって、ムルコス彗星発見の電報が日本にも来た。倉賀野氏の発見を重く見た神田茂氏は、コペンハーゲンのセンターに知らせた。しかしその返事は、「独立発見者が多いので、倉賀野氏の名前は付けられない」という事であった。この彗星はその後明るくなって、日本全国から3等星として肉眼で眺められた。倉賀野氏の地元では、これを「クラガノ彗星」と呼んで親しんだという。私の住む上町でも、夏の夕涼みの人たちが、西空に輝く彗星を見て「あれよあれよ」と騒いでいたことを記憶している。涼み台は途端に星の話でにぎわった。有名な「アラン.ロラン彗星」の出た直後の事であった。
さて、本田さんの発見したC/1955 O1は、完全な本田さんの独走であった。この時本田さんは初めて口径10cmの興和製の双眼望遠鏡を使用した。そして、観測室の円形の床がモーターで自動的に回転するという新しい基軸をとりいれた。人間が椅子に座ったまま回転し、楽に全天が観測できたのである。
本田氏の発見は朝方の、オリオン座の南で8等星。毎日少しずつ明るくなってくる様子から、近日点通過のころには、肉眼星になることも予想された。この本田彗星(C/1955 O1)の光度変化に着目したOAAの長谷川氏は、花山天文台の接近した3日間の光度変化から、実験式を作成し、その予報を発表した。それは驚くべき結果となった。
山本天文台からマスコミにも発表があったが、近日点を通過した8月の中旬には最大マイナス8等になるという、とてつもない結果だった。これは正に満月の明るさにも匹敵する光度である。世間は大騒ぎとなった。私の近所でも、一般の人が朝早く起きて見守った。しかし結果は予想に相反して、肉眼では到底困難な6等星であった。計算者はもちろん、天文界は大いに落胆した。
アメリカのカニンガム博士は、この予報を標準型の、彗星が太陽からの距離の4乗に逆比例するという無難な一般的な方式を取って、見事的中した。悪い言い方をすれば、ベテランと新進との差がこのような結果として出てしまったのである。
この年1955年の8月に、折よく第三回目の「彗星会議」が京都市の花山天文台で開催され、本田彗星の光度の問題が討議された。長谷川一郎氏から、「あまりにも短い期間からの長期の予報が失敗した」との説明があった。
本田氏は今回の発見が、彗星会議から表彰された。彗星発見といえば本田さん。本田さんが発見してあたりまえということで、世間には、発見は本田さんでなくては出来ないこと、という見方が強かったのである。ところが、それから6年後の1961年になって、本田さんでないとできない、という”神話”を覆す男が現れたのである。
(1954年の本田実氏と1955年に発見した本田彗星)


にほんブログ村
コメント
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。