私の住んでいる上町は、昔は「通町」と言って、土佐24万石の城下町でした。奉公人町とか、鷹匠町、水道町といった懐かしい町名が、戦後も永く残っていました。
旧、築屋敷町を歩いていると、忠霊塔の陰に藩政時代の遺物が残っていました。石碑は「従是西六ノ丁場」と読めます。鏡川畔は、昔から水害の出た場所で、そのたび復旧工事の受け持ちの場所が決められていたのです。武士、町民を問わず、自分の受け持ちの範囲を、水復旧に尽力したのです。
昭和に入ってから堤防が出来たので、水害は少なくなりましたが、大正の中期に台風のために大きな災害が発生して、路上を大水が流れた写真が記録されていました。この頃、一般で写真を撮ることは大変珍しい事で、市内に1軒の写真のDP店もない時代に、叔父(母の兄)琴堂は、ガラス乾板を使用する小さなボックスカメラを自作して、そうした重大な事件を撮影したようです。フィルムはまだ発明されていませんでした。
徳川家最後の殿様、慶喜が、明治新時代の平民になって、南蛮渡来の自転車に乗って走ってみたり、或いは町の写真を撮ったり、西洋の文化にあこがれて、いろんなことをやったそうですが、私の叔父も生きた大正ロマンを楽しんだようです。
私が幼い頃、住んでいた二階に、だれも開けたことがないという物置小屋がありました。いたずら坊主で好奇心の旺盛だった私は、父母の眼を盗んで、ある日そっと潜り込んでみました。真っ暗です。しかし、そこには「アッ」と驚く風景が眠っていたのです。


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旧、築屋敷町を歩いていると、忠霊塔の陰に藩政時代の遺物が残っていました。石碑は「従是西六ノ丁場」と読めます。鏡川畔は、昔から水害の出た場所で、そのたび復旧工事の受け持ちの場所が決められていたのです。武士、町民を問わず、自分の受け持ちの範囲を、水復旧に尽力したのです。
昭和に入ってから堤防が出来たので、水害は少なくなりましたが、大正の中期に台風のために大きな災害が発生して、路上を大水が流れた写真が記録されていました。この頃、一般で写真を撮ることは大変珍しい事で、市内に1軒の写真のDP店もない時代に、叔父(母の兄)琴堂は、ガラス乾板を使用する小さなボックスカメラを自作して、そうした重大な事件を撮影したようです。フィルムはまだ発明されていませんでした。
徳川家最後の殿様、慶喜が、明治新時代の平民になって、南蛮渡来の自転車に乗って走ってみたり、或いは町の写真を撮ったり、西洋の文化にあこがれて、いろんなことをやったそうですが、私の叔父も生きた大正ロマンを楽しんだようです。
私が幼い頃、住んでいた二階に、だれも開けたことがないという物置小屋がありました。いたずら坊主で好奇心の旺盛だった私は、父母の眼を盗んで、ある日そっと潜り込んでみました。真っ暗です。しかし、そこには「アッ」と驚く風景が眠っていたのです。


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