秘密の物置小屋は畳4畳半くらいの狭い部屋であった。薄暗くて様子が良くわからない。次第に眼が暗闇に慣れてくると、中の様子が見えてきた。
まず壁に、ある人物の肖像写真が貼ってあった。大正時代に撮影したものらしく、羽織、袴姿の男性は眼光が鋭く、新撰組の局長「近藤勇」の風貌を思わすものがあった。どうやらこの人物が、叔父の「関琴堂」らしい。「琴堂」とは、書道をやっていた叔父の雅号で、本名は「光恵」といった。全国的に相当腕を鳴らしたらしいが、私は時代が異なるために知らない。
物置の中には、まるで古道具屋かと思われるほどに、道具で埋まっていた。2台の古いオルガンに糸の切れた二本のヴァイオリン。奇妙な形をした中国製らしい胡弓。旧式の空気銃に、朝顔式の大きなラッパのついた蓄音機。床には「美ち奴」や、当時ヒットした「小唄勝太郎」のレッテルを張ったレコードが散らばっている。しかし、それらの中に、作りかけのラジオ受信機らしいものがあって、目をひいた。まな板くらいの大きさの板に、スパイダーコイルや、バリャブル、コンデンサーなどを取り付けて配線したもので、永い間の埃が堆積して見る影もないが、これは明らかに「スーパーヘテロダイン」のような、高性能のラジオ受信機を組み立てたものであった。
大正時代にはNHKの第一放送は開局したが、高知県には中継の放送局が無かったために東京や大阪の電波をダイレクトに受信するしかなかったのである。
一般でラジオを持っている家庭はきわめて稀であった。しかも当時は受信機の性能が悪くて、家の屋根に高い長いアンテナを張らなくては受信できなかった。
昭和の初めには盧溝橋に端を発した日中戦争が拡大し、世界の情勢が風雲急を告げる時代に、速やかにその情勢をつかもうとしたらしい。琴堂は平凡な関家にとって、珍しい文化人であったらしい。何よりも西洋の新しいものを取り入れるのが好きであった。
遺品の中に叔父が愛読したと思われる小さなゲーテの詩集の古い本が出てきた。ページをめくっていると、あるページに小さな野菊の押し花があった。詩の題名は(愛する人と共に)であった。35歳で病没した叔父に、憧れの人でもいたのであろうか。最後に星空の現れるこの愛の詩は私も好きで、暗記するほどに愛読した。
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まず壁に、ある人物の肖像写真が貼ってあった。大正時代に撮影したものらしく、羽織、袴姿の男性は眼光が鋭く、新撰組の局長「近藤勇」の風貌を思わすものがあった。どうやらこの人物が、叔父の「関琴堂」らしい。「琴堂」とは、書道をやっていた叔父の雅号で、本名は「光恵」といった。全国的に相当腕を鳴らしたらしいが、私は時代が異なるために知らない。
物置の中には、まるで古道具屋かと思われるほどに、道具で埋まっていた。2台の古いオルガンに糸の切れた二本のヴァイオリン。奇妙な形をした中国製らしい胡弓。旧式の空気銃に、朝顔式の大きなラッパのついた蓄音機。床には「美ち奴」や、当時ヒットした「小唄勝太郎」のレッテルを張ったレコードが散らばっている。しかし、それらの中に、作りかけのラジオ受信機らしいものがあって、目をひいた。まな板くらいの大きさの板に、スパイダーコイルや、バリャブル、コンデンサーなどを取り付けて配線したもので、永い間の埃が堆積して見る影もないが、これは明らかに「スーパーヘテロダイン」のような、高性能のラジオ受信機を組み立てたものであった。
大正時代にはNHKの第一放送は開局したが、高知県には中継の放送局が無かったために東京や大阪の電波をダイレクトに受信するしかなかったのである。
一般でラジオを持っている家庭はきわめて稀であった。しかも当時は受信機の性能が悪くて、家の屋根に高い長いアンテナを張らなくては受信できなかった。
昭和の初めには盧溝橋に端を発した日中戦争が拡大し、世界の情勢が風雲急を告げる時代に、速やかにその情勢をつかもうとしたらしい。琴堂は平凡な関家にとって、珍しい文化人であったらしい。何よりも西洋の新しいものを取り入れるのが好きであった。
遺品の中に叔父が愛読したと思われる小さなゲーテの詩集の古い本が出てきた。ページをめくっていると、あるページに小さな野菊の押し花があった。詩の題名は(愛する人と共に)であった。35歳で病没した叔父に、憧れの人でもいたのであろうか。最後に星空の現れるこの愛の詩は私も好きで、暗記するほどに愛読した。
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