自分の部屋と天文台が近いということは実に便利だった。1961年10月、この場所で彗星を発見した時、寝ていた場所から、わずか15mの距離だった。雲の多い日なんかは頻繁におきて天候を気にし、少しでも晴れ間がのぞくと観測台に駈け上った。
 当時は周囲に高い建物は無く、全天の90パーセントが観測できた。1962年の「関・ラインズ彗星」の時には、真夜中の南天、地上15度だった。1965年9月の「池谷・関彗星」の時もわずかな晴れ間を利用しての発見で、今の自宅から40km離れた芸西ではとても発見は無理だったと思う。
 観測台に見えるは9cmのコメットシーカーで、後ろに見える反射望遠鏡は、確認のための15cmの経緯台である。9cmでは15倍オンリーであるが、彗星と微細な恒星の集団とを区別するための15cmの高倍率が必要だったのである。

 戦前の三鷹の東京天文台には、口径20cmの彗星捜索鏡があった。1936年の下保彗星
(1936 O1)の発見に貢献したが、このツァイス製のコメットシーカーが、どういった動機で東京天文台に納入されたかは永遠の謎である。下保茂氏は、変光星の観測者であって、ほかに彗星の捜索者はいなかった。
 このコメットシーカーは、ハンドル1つで方位が360度回転し、全天が楽に観測できた。対物レンズはトリプレット タイプの3枚玉で、27xから130xまでレボルバーで自由に変換できた。当時のコメットハンターの憧れとする宝物であった。

 1965年頃、埼玉県の堂平観測所に行ったとき、冨田氏の好意でこのレンズで実際に星を覗
いた。青のやや強いシャープな星像であった。先輩の本田実氏でさえも、この望遠鏡を覗いたことは無かったそうである。なお下保彗星は(Kaho-Kozik-Lis)が正しい名称である。

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