東亜天文学会(OAA)は、戦前の大正年代に京都大学の山本一清博士によって設立された天文学会である。昭和期に入って、山本博士が大学を退官された後も、博士を会長として続いた。
 東の日本天文学会に比べて、一般のアマチュアが多かった。中でも長谷川一郎氏は、計算面で大いに活躍して博士を支えた。彗星や小惑星の軌道計算を初め、月による恒星のオッカルティション(掩蔽)の予報や観測後の計算まで担った。

 毎年世界で発見される沢山の小惑星は、手分けして日本でもかなりの数の軌道を計算した。
沢山の数の計算を割り当てられて困っているところへ私が登場して、片っ端から計算してかた付けていった。今振り返ってみると、その後芸西天文台で発見した223個の小惑星と、まったく同じ数の軌道計算をやったことは偶然なる奇跡である。軌道計算は円軌道にとどまらず、楕円軌道や彗星の位置予報まで計算して貢献した。「関勉」という計算者がいた時代を知る人はいまは少ないであろう。多い時には1日で10時間を計算に費やした。軌道計算が一つ終わるとげっそりと痩せるほどに頭を使った。そして時には験算が合わなくて1日中悩んだ。私の彗星の発見はこの後の世界であった。

 計算の指導格の長谷川氏は当時神戸の須磨に住んで家庭教師をやっていた。私からの問い合わの
手紙はたった3日で往復したことがある、便利なところであった。お家は教会であった。お父さんが牧師さんで、幼稚園も兼ねていた。ご家族全員にもお目にかかってよく知っていた。後日彗星発見の藤川さんらと家に泊めてもらったこともある。
 長谷川さんは山本一清博士の発行する「山本速報」を手伝っていた。日英二本立てで海外にも数多く発行していた。そして東亜天文学会の第8代目の会長を務めた。
 私は常に同氏と共にあって、手伝いをしたが、最も痛切な印象として思い出にのこることは、18Dペライン彗星の再発見であった。1909年以来、46年間も行方不明になっている彗星の永い摂動計算をして再発見しようというのである。しかし幸いにも東京天文台の広瀬秀雄台長が独りコツコツと計算して1950年までの軌道要素を完成さしていた。その後の5年間の摂動計算を約10日かけて毎日朝から晩まで没頭して完成させた。発見のための位置予報もついていた。ところがこの位置予報に大きなミステイクがあって、実際の位置より90度もずれていた。明らかに三角関数での象限の取り違えである。計算の結果は間もなく世界を回ろうとしていた。
「ちょっとまて!」の私からの至急電報が彼の所までとどいた。こうして一難が去ったが、長谷川氏の訂正された予報が再びIAU (国際天文学連合)に届くのと入れ違いに、チェコ・スロバキアのコメットハンター、A・ムルコス発見の新彗星発見の電報が届いた。それは紛れもなく長谷川氏の計算したペライン彗星の運動と一致するものであった。直ちに山本博士からコペンハーゲンのセンターに打電された。永い天文生活の中でも、長谷川氏にとって忘れることのできない事件であったろう。

 ペライン・ムルコス彗星は、その後1968年まで毎回無事観測されていたが、その後再び失踪し、今
年で実に53年間も行方をくらましている。1955年に再発見された時には、予報光度より実に100倍も明るかった。そうした光度の物理的な原因によって、再観測を難しくしているらしい。しかし、今度もし発見されたら、爆発的な大ニュースになる事間違いなし。
 ”誰かこれを発見する者はいないだろうか?”

(写真は向かって右が長谷川一郎氏。須磨の長谷川氏教会にて)

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