バーナードは、19世紀から20世紀にかけてアメリカで活躍した天文家である。木星の第5衛星の発見者であり、天体写真の開拓者でもあった。
1882年9月の、セプテンバーコメット(太陽を掠める彗星群)が発見された時には、白昼太陽のそばで分裂しながら太陽を回る、同彗星の珍しい現象を撮影した。また1910年には回帰したハレー彗星の写真を撮ったが、朝方の金星と共に写った写真は、当時の唯一の見事な作品として珍重されている。
彼は学者でありながらコメットハンターでもあった。山本一清博士が記録した彗星発見者のレコードでは、第一位がフランスのポンで28個の発見。第2位がバーナードで21個の発見となっている。しかしこの数には周期彗星の再発見(検出)も交じっている。もし周期彗星の発見も入れるなら1950年代にフラグスタフで活躍したE.リーマー女史の69個が第一位。芸西の私の場合は34個で2位になる。最もアメリカではその後スコッチなんかの活躍もあって周期彗星検出は大望遠鏡を持っている天文台に限られてきた。
しかしバーナードの偉かったのは、写真乾板が極めて低感度の時代に、超、長時間かけてガイド撮影したことである。感度は今のISOでいうと、10に届かなかった。星野撮影は5時間くらいかけて露出し、いったんシャッターを閉じ、そのまま翌日に持ち越して、再びその続きを露出したという。これは、アメリカに留学しバーナードの門下生だった山崎正光氏から聞いた話である。バーナードはアメリカの変光星観測協会の会長も務めていた。
バーナード博士と会った日本人はほかにもいた。のちOAAを起こした山本一清博士である。山本博士はアメリカ留学中に尊敬するバンビースブルグ氏と共にバーナード氏の臨終の床に立ち会ったという。
「ああ、もう一度星空を見たい」。これがバーナード博士の最期の言葉であった。
バーナード博士の発見にはいくつかの楕円軌道の彗星がある。2006年、私はバーナード第2彗星と言われる周期彗星を芸西で観測することが出来た。発見から実に122年振りである。偉大な彼の魂は彗星となって、今も永遠に生きているのである。
(写真は2006年7月26日。芸西の60cmで10分間の露出。)
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1882年9月の、セプテンバーコメット(太陽を掠める彗星群)が発見された時には、白昼太陽のそばで分裂しながら太陽を回る、同彗星の珍しい現象を撮影した。また1910年には回帰したハレー彗星の写真を撮ったが、朝方の金星と共に写った写真は、当時の唯一の見事な作品として珍重されている。
彼は学者でありながらコメットハンターでもあった。山本一清博士が記録した彗星発見者のレコードでは、第一位がフランスのポンで28個の発見。第2位がバーナードで21個の発見となっている。しかしこの数には周期彗星の再発見(検出)も交じっている。もし周期彗星の発見も入れるなら1950年代にフラグスタフで活躍したE.リーマー女史の69個が第一位。芸西の私の場合は34個で2位になる。最もアメリカではその後スコッチなんかの活躍もあって周期彗星検出は大望遠鏡を持っている天文台に限られてきた。
しかしバーナードの偉かったのは、写真乾板が極めて低感度の時代に、超、長時間かけてガイド撮影したことである。感度は今のISOでいうと、10に届かなかった。星野撮影は5時間くらいかけて露出し、いったんシャッターを閉じ、そのまま翌日に持ち越して、再びその続きを露出したという。これは、アメリカに留学しバーナードの門下生だった山崎正光氏から聞いた話である。バーナードはアメリカの変光星観測協会の会長も務めていた。
バーナード博士と会った日本人はほかにもいた。のちOAAを起こした山本一清博士である。山本博士はアメリカ留学中に尊敬するバンビースブルグ氏と共にバーナード氏の臨終の床に立ち会ったという。
「ああ、もう一度星空を見たい」。これがバーナード博士の最期の言葉であった。
バーナード博士の発見にはいくつかの楕円軌道の彗星がある。2006年、私はバーナード第2彗星と言われる周期彗星を芸西で観測することが出来た。発見から実に122年振りである。偉大な彼の魂は彗星となって、今も永遠に生きているのである。
(写真は2006年7月26日。芸西の60cmで10分間の露出。)
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