終戦の日の昭和20年8月15日、私たち学生は依然として本土防衛のための作業に従事していました。疎開先の米田に近い「荒倉峠」で、関東軍の指揮下にあって、山に横穴掘りの土木作業を行なっていました。

しかしこの日は特別に高知市の比島に出張して作業するとかで、軍のトラックに乗り東に走りました。途中、高知市の見事な焼け野が原を通りました。まるで砂漠の様で、その中で空襲を奇跡的に逃れた高知城と時計台のある「城東中学校」の三階建ての校舎が残り印象的でした。

比島は、高知市付近が海の底だった昔、近くの葛島と共にうかんでいた小さな島で、山上には無人の神社がありました。私たちは,この山上で終戦を迎えたのでした。下で玉音放送を聞いた学生が報せてきました。しかし兵士たちは何も知らずに翌日まで黙々と働いていました。この比島は、実は天文学の歴史の山でもあったのです。

江戸時代の天文学者、川谷薊山(1706-1769)は日食や月食の予報を得意としていました。
宝暦13年9月1日に日食が起こることを計算したのですが、幕府
の天文方が発表した暦にそれが記載されていませんでした。そこで天文方と薊山との間で論争となり、世間が注目するところとなりました。

いよいよやってきた当日の朝、薊山は近くの比島の上に上がり手製の天体望遠鏡を据えました。やがて日食が始まり、見る見るうちに欠けて行く太陽の姿に薊山は会心の笑みを浮かべたのでした。こうして薊山の名は全国的に有名になりました。そして何も知らずに史跡の山に立っていた私に、天文学の道が開けてきたのも薊山の魂が宿ったかもしれません。

(写真は薊山が製作した渾天儀 太陽や月、惑星の運行を説明する道具で、山内家所蔵)

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