1953年12月に発見されたパイドゥシャコヴァ彗星(1953 X1)は、アメリカのカニンガム氏による軌道計算では、翌1954年1月24日に近日点を通るようになっていました。その時の太陽中心からの距離は、0.072天文単位と極端に近く、大彗星に成長することが予想されました。現に山本一清博士の発行する「山本天文速報」では、マイナス級の明るさで、明け方の空にその尾は天を衝くとて、その雄大な予想図まで発表されました。
しかし、彗星はその予想に反して、太陽に接近しながら、逆に暗くなっていく、という変ったタイプのものでした。そして近日点通過の朝には、彗星の片鱗もみせませんでした。
期待した多くの観測者はがっくりきました。「こんなことがあっていいだろうか!?」と大きな謎に直面したのですが、アメリカのある学者は「この彗星は本来が大変暗い標準等級のもので、発見された時、たまたま突発的に明るくなっていたものであろう」と結論づけました。つまり、近日点通過の際に本来の暗さに戻った、というものです。それにしても疑問の残る彗星でした。
近日点通過前には私は15cm鏡で何回か観測しました。大変拡散した、核のない朦朧としたつかみどころのないイメージで、鋭眼を誇るあの本田さんでさえも眼視観測できませんでした。
京都大学の花山天文台では、15cmのアストロカメラで三谷氏が追跡しましたが、満足に写らなかったということでした。当時の写真感材は感度が極端に低くて、こうした淡い拡散状天体に対しては極に弱かったのです。
ところが、ここで意外な事実が判明しました。東京三鷹の天文台では富田弘一郎氏が、この彗星の発見前の11月に、国内の何者かが彗星を発見したという情報があって、カメラを向けていたのです。しかし、そのころはアマチュアによる誤報が多くあり、乾板をしっかりと見ていなかったのですが、後で、じっくりと見ると、なるほど10等級の朦朧とした天体が写っていました。位置は暫時富田氏によって測定され、よい軌道の計算に役だったのでした。しかし、この彗星の最初の発見者は名乗り出ず、結局日本では発見者不明のまま終わりました。
1966年頃、埼玉県の堂平観測所を尋ねた時、富田さんがその乾板を見せてくれました。口径20cmのブラッシャー天体写真儀で撮影されたもので、そのイメージは鮮明でした。パドゥシャコバァ女史発見の時より、1等級ほど明るいと見ました。
(写真は、1953年11月、明るかった頃のパイドゥシャコバ彗星。当時の東京天文台提供)


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しかし、彗星はその予想に反して、太陽に接近しながら、逆に暗くなっていく、という変ったタイプのものでした。そして近日点通過の朝には、彗星の片鱗もみせませんでした。
期待した多くの観測者はがっくりきました。「こんなことがあっていいだろうか!?」と大きな謎に直面したのですが、アメリカのある学者は「この彗星は本来が大変暗い標準等級のもので、発見された時、たまたま突発的に明るくなっていたものであろう」と結論づけました。つまり、近日点通過の際に本来の暗さに戻った、というものです。それにしても疑問の残る彗星でした。
近日点通過前には私は15cm鏡で何回か観測しました。大変拡散した、核のない朦朧としたつかみどころのないイメージで、鋭眼を誇るあの本田さんでさえも眼視観測できませんでした。
京都大学の花山天文台では、15cmのアストロカメラで三谷氏が追跡しましたが、満足に写らなかったということでした。当時の写真感材は感度が極端に低くて、こうした淡い拡散状天体に対しては極に弱かったのです。
ところが、ここで意外な事実が判明しました。東京三鷹の天文台では富田弘一郎氏が、この彗星の発見前の11月に、国内の何者かが彗星を発見したという情報があって、カメラを向けていたのです。しかし、そのころはアマチュアによる誤報が多くあり、乾板をしっかりと見ていなかったのですが、後で、じっくりと見ると、なるほど10等級の朦朧とした天体が写っていました。位置は暫時富田氏によって測定され、よい軌道の計算に役だったのでした。しかし、この彗星の最初の発見者は名乗り出ず、結局日本では発見者不明のまま終わりました。
1966年頃、埼玉県の堂平観測所を尋ねた時、富田さんがその乾板を見せてくれました。口径20cmのブラッシャー天体写真儀で撮影されたもので、そのイメージは鮮明でした。パドゥシャコバァ女史発見の時より、1等級ほど明るいと見ました。
(写真は、1953年11月、明るかった頃のパイドゥシャコバ彗星。当時の東京天文台提供)

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