1953年12月、当時のチェコスロヴァキアのパイドゥシャコヴァ女史によって暗い特別な光度変化の彗星が発見されたことは前回述べたが、このころ1復員兵たる本田実氏の大活躍があったことは周知の如くである。
 1947〜48年。口径15cmの反射望遠鏡を駆使して、たて続けに三つの新彗星を発見したことは日本の彗星発見史上に燦然と輝いている。当然、多くのハンターが、我もわれもと名乗りを挙げた。その主な人は下記の如くであった。

 角田喜久男 (東京)
 原田参太郎 (京都) 15 cm 反射
 松井宗一  (京都) 12.5cm 反射
 浅野英之助 (山口県)10 cm 反射
 川人武正  (香川県)20 cm 反射

 これは当時の本田氏の調査である。しかし、この中で実際に発見に成功した人は無く、他の分野で大いに活躍することになる。実際の彗星の発見は1961年まで待たされることとなった。

 特筆すべきは、関西のあるメーカーが「彗星捜索望遠鏡」と名打って短焦点反射望遠鏡
を発売した。確か口径は15cmの、本田氏の望遠鏡に見習った普通の経緯台だった。
 この第一号機を買った方は、当時有名な高知県竹林寺の僧侶で、ご本人は亡くなったが、望遠鏡は今も残されているという。そう!「よさこい節」のかんざしで有名なお寺である。山本さんは火星が専門だったが、暇なときは、いつもお寺のある山上から彗星を見はっていた。
 
 「本田さんの後継者は10年待ってください」。そのころ、密かに私は人口18万の市街のなかで、発見への狼煙を挙げていたのであった。金のない高校生は、壊れた老眼鏡の玉と虫眼鏡で、屈折式望遠鏡を組み立て、発見への意欲を燃やしていたのであった。

(写真は筆者の自作第1号の老眼鏡コメットシーカー)

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