45P「ホンダ・ムルコス・パドゥシャコヴァ彗星」が、初めて発見されたのは1948年の12月上旬だった。当時は暗澹たる敗戦直後の空で、星空も暗かったが、社会も食料難、住宅難で世相も暗かった。こんな社会の中で星の探索をやっていた人は、よほどの星好きの人だったろう。先回述べた広島県の本田実氏もその中の一人で、南方からの復員直後の発見でもあった。
午前5時30分ごろだった。15cmの反射望遠鏡で、東南の「うみへび座」付近を捜索中、突然、8等級の彗星を捉えた。中心核も尾もない雲霧状だった。ところがその頃、先に述べた京都の原田参太郎氏も、同じような反射望遠鏡で、この付近を上空から低空へと探索していた。視野は本田氏のそれより明らかに30分早く進行していたという。このままだったら、よほど何かの障害でも起こらない限り、原田氏に最初発見の軍配が挙がるはずであった。
ところが運命とは妙な物である。午前5時過ぎになって、東南天の「からす座」の南に彗星らしい光芒を捉えた。一瞬全身の血が暑くなるほどの興奮をおぼえたという。気温はマイナス5度の極寒である。「ヤッター!」と、思わず立ち上がった瞬間、目の前で突然、メラメラと立ち上がる赤い炎を見た。あたりが騒がしくなった。サイレンが鳴り始めた。すぐ近くでの火事である。何という不幸な出来事だったのか。その後は消火活動に懸命になって”彗星発見の巻”は無念にもお預けとなってしまったのである。
もう一つは、同じ本田氏の発見であるが、これは1955 O1の符号のつく本田彗星である。明るい7等級の彗星が、明け方のオリオン座の南に現れた。原田氏と同じ京都の松井宗一氏は、花山天文台で、オリオン座の中に彗星を発見した。ところがそれと入れ違いに本田氏の発見の電報が来たが、それは松井氏発見の位置より5度も南であった。京都大学の花山天文台では、松井氏の発見を、1919年の「フインレイ・佐々木彗星」以来の快挙と見ていたが、これは結局本田氏の発見電に大きなミスがあって、両者は同じ天体の観測であることが判明した。結局松井氏にも、本田氏と同じ発見の視力があることがわかったが、その後の努力にもかかわらず、新発見には恵まれなかった。このようにして本田氏の独走は続いて行ったのである。
以上の様な事実もあって、星を知る世界では(彗星の発見は、本田氏にしかできないものである)との一種の神話の様な説が定着したのである。果たしてそのような説を覆すものが出たのか?本田氏は後継者の輩出に絶大なる期待を持っていた一方、新しい発見者が台頭して、その様な神話が、崩れ去ることに一抹の不安と悲哀を抱えていたのである。
それからの数年、天界には、何の変化もなく、あたらしい1960年代を迎えることになるのである。
(写真は、本田氏最後のコメットシーカー、12cm20x)


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午前5時30分ごろだった。15cmの反射望遠鏡で、東南の「うみへび座」付近を捜索中、突然、8等級の彗星を捉えた。中心核も尾もない雲霧状だった。ところがその頃、先に述べた京都の原田参太郎氏も、同じような反射望遠鏡で、この付近を上空から低空へと探索していた。視野は本田氏のそれより明らかに30分早く進行していたという。このままだったら、よほど何かの障害でも起こらない限り、原田氏に最初発見の軍配が挙がるはずであった。
ところが運命とは妙な物である。午前5時過ぎになって、東南天の「からす座」の南に彗星らしい光芒を捉えた。一瞬全身の血が暑くなるほどの興奮をおぼえたという。気温はマイナス5度の極寒である。「ヤッター!」と、思わず立ち上がった瞬間、目の前で突然、メラメラと立ち上がる赤い炎を見た。あたりが騒がしくなった。サイレンが鳴り始めた。すぐ近くでの火事である。何という不幸な出来事だったのか。その後は消火活動に懸命になって”彗星発見の巻”は無念にもお預けとなってしまったのである。
もう一つは、同じ本田氏の発見であるが、これは1955 O1の符号のつく本田彗星である。明るい7等級の彗星が、明け方のオリオン座の南に現れた。原田氏と同じ京都の松井宗一氏は、花山天文台で、オリオン座の中に彗星を発見した。ところがそれと入れ違いに本田氏の発見の電報が来たが、それは松井氏発見の位置より5度も南であった。京都大学の花山天文台では、松井氏の発見を、1919年の「フインレイ・佐々木彗星」以来の快挙と見ていたが、これは結局本田氏の発見電に大きなミスがあって、両者は同じ天体の観測であることが判明した。結局松井氏にも、本田氏と同じ発見の視力があることがわかったが、その後の努力にもかかわらず、新発見には恵まれなかった。このようにして本田氏の独走は続いて行ったのである。
以上の様な事実もあって、星を知る世界では(彗星の発見は、本田氏にしかできないものである)との一種の神話の様な説が定着したのである。果たしてそのような説を覆すものが出たのか?本田氏は後継者の輩出に絶大なる期待を持っていた一方、新しい発見者が台頭して、その様な神話が、崩れ去ることに一抹の不安と悲哀を抱えていたのである。
それからの数年、天界には、何の変化もなく、あたらしい1960年代を迎えることになるのである。
(写真は、本田氏最後のコメットシーカー、12cm20x)

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