私の若い時代はコメットハンターであると共に流星の観測者でもありました。今日1月4日は四分儀座流星群の観られる日でしたが、夜明け前の高知市の空に微光の流星が時折り「チカチカ」と輝きました。しかし、昔はもっと出現が多かったように思います。
 
 忘れもしません、1953年の1月3日でした。夕方から水道が凍結して出なくなるような激寒の日に流星群を迎えました。気温は氷点下7度。カイロをいくつかポケットに入れて観測台に上がりましたが、温かいという気はしませんでした。冷たい風で息はしにくく腕時計までも激寒で止まりました。そして、4日の朝を迎えたのです。

 こんな朝、彗星の捜索をしながら頭上に展開する流星群を見ました。微光流星が多かったのですが、極大時には数秒に1個の割合で大出現しました。この日の私の観測は、当時の「山本天文台速報」に出ています。 近年稀な大出現でした。その後 彗星の観測が本流となって、流星から離れましたが、いまはどうなっているので しょうか。ちなみに今は「四分儀座」と言う星座は無く「りゅう座」の一部になっていると思います。

 1955年8月に京都大学の花山天文台で「彗星・流星合同会議」が開催されました。国内の学者や学究がたくさん集合しました。7月に倉敷の本田実氏が久々に明るい新彗星を発見した後でもあって、大いに盛りあがりました。それに、長谷川氏がマイナス等級の明るい予報を出し、マスコミも反応して世間でも大話題になっていました。そんなとき流星研究の泰斗、小槙幸二郎氏が、8月ペルセウス座流星群の母彗星「スイフト・タットル彗星」の、これまでの120年の周期が、約10年延びて帰ってくることを発表して話題をさらいました。スイフト・タットル彗星は、1992年になって堂々と現れ、日本のコメットハンターの発見する所となるのです。

 当時、長谷川一郎氏は、すでに通り過ぎたとの見解を示していましたが、こ
の様な明るい彗星が世界中のだれにも気づかれずに通り過ぎることは全くありえないことだったのです。そして新本田彗星は5等星以上には明るくなりませんでした。

(写真は、関勉の新刊のデザイン)
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