私の家のリビングには昨年の暮れからの赤い花が咲き続けている。
この蘭の花は、昨年の12月8日、芸西天文台開館40周年の式典の時、五藤光学の社長から送られたものである。
 高知県の天文学の歴史は常に高知県出身の五藤斉三氏と共にあったように思う。古くは戦前の1938年、高知市で「南国大博覧会」が開催された時、光学会社を興したばかりの五藤氏は、会場の一角に「太陽館」を建設して、自社製の15cm屈折赤道儀を披露した。立派なドーム付きの2階建ての建物で、今の芸西天文台より立派であった。開場は昼間の事ゆえ、五藤氏夫妻は、折から活動が全盛中の太陽黒点を見せた。1937〜38年は、11年に一度の黒点活動の最盛期に当たっていたのである。

 この会場に、将来五藤氏にとって重要な役割を演ずる小学1年生の私がいたことは単なる偶然であったろうか?それから実に40年後に五藤さんと私はふたたび邂逅して、壮大な60センチ反射望遠鏡の天文台を建てることとなるのである。 

 土佐での天文学の流れは江戸時代の「谷秦山」とその後の「川谷薊山」。そして
昭和の「五藤斉三」によって代表されると思う。谷や川谷は、主として日食や月食を研究したが、五藤は貧しかった戦後の小中学校に、理科振興法にもとづく天体望遠鏡を提供して、戦後の天文学の発展に貢献したのである。いわば、その最後の流れが芸西天文台であったともいえる。時価6,000万ともいわれた当時としては最先端を行く60cmの反射望遠鏡は会社ではなく、五藤氏個人としての寄付であった。

 この様な経過を経ての天文台の設立は決して無駄にしてはならないという強固な意思があった。当時としては、1台のプラネタリウムもない高知県の天文教育の向上をめざした。そして数多くの彗星の観測や小惑星の発見を行って、五藤氏の善意に応えたのである。今回の40周年に花を贈って下さった五藤信隆社長は五藤光学として第3代目の社長にあたる。全国に大きく遅れて出現したオーテピアのプラネタリウムも、いまの五藤製である。芸西の天文台が完成してからの最大の出来事は、76年周期の大ハレー彗星を迎えたことであったと思っている。国内で最初に観測し、そして五藤斉三夫妻を二度目のハレー彗星観測に導いたのも、忘れられぬ出来事であった。

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